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きつねのかがりび(仮)

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きつねのかがりび(仮)

 幼い頃から他者(ひと)には見えない『何か』が見え、他者(ひと)には聞えぬ『何か』が聞こえ、他者(ひと)には触れぬ『何か』に触れる事が出来た。『何か』とは何か。それは俗にお化けや妖怪、幽霊と呼ばれるものだ。別に望んで得た能力ではない。はっきり言って俺はこの能力を憎んでいる。なぜなら俺は幼い頃からこの能力が原因で、事ある毎に周囲の人間から迫害を受けて来たからだ。
 想像してみて欲しい。例えば俺が道端で妖怪に話かけられたとする。その妖怪と言葉を交わす俺が視えない他人の目にどう映るのかを。窓の外でこちらをジッと見つめてくる妖怪に怯えていたら、突然妖怪に頭を撫でられ驚いて大声を上げたてしまったら、どう思われるのかを。どれもこれも妖怪の視えない他者からすれば、ひとりで突然奇怪な事を始めるイカれた人間にしか視えないはずである。そして、そんなイカれた人間たる俺が異質で変質としか思われず、物心ついた幼少期からつい先月の中学卒業まで、同級生のみならず上級生、下級生、挙げ句はその保護者並びに教師の面々から、虚言壁だの中二病だのと数々のレッテルを貼られ、誹謗中傷、侮蔑の視線に曝されてきた事は想像に難くない筈だ。
 全く以て過酷で辛辣な境遇だと思わないか? 何度、己の才能を恨んだことか。
 だが、しかし! 
 そんな暗い過去にいつまでも囚われている俺ではない。人間というのは努力する生き物である。過去の失敗から多くを学び、未来の幸せに繋げる力を持っている。有史以来、人類が数々の栄華を修めてきたように、俺もまた、偉大なる先人達に習い、その過酷な境遇からの脱却に日々勤しんでいるからだ。
 この春、俺は中学卒業を機に長年慣れ親しんだ地元から適度に離れた街にある高校を進学先とする事で、過去の精算を図る事にした。俺の存在を知る者がいない土地ならば、黒歴史の悪評に振り回されることもなく、周囲との人間関係を正常化出来ると考えたのだ。
 実際、結果の程は上々であった。入学して数日、今のところ思惑通り、校内は疎か周辺地域ですら俺の悪評を知る者はいない様子だからだ。
 尤も真に留意すべき問題はここからなので安直な賞賛はご法度である。幾ら過去の黒歴史をリセット出来たからといって、妖怪との遭遇時に於ける対処法を誤れば、新たな黒歴史が紡がれてしまう。そうなれば元の木阿弥に他ならない。よって今後、俺は妖怪との遭遇時、周りから誤解される事のないような対処に努めなければならず、それこそが本題なのである。
 勿論その辺も抜かりはない。伊達に長年妖怪、幽霊といった怪異案件で苦渋を味わってきたわけではない。しっかりと対処法は用意した。
 その対処法とは、ズバリ無視(シカト)である。妖怪に出くわそうが、浮遊霊に声を掛けられようが、徹底的に彼らを無視し続ける。それにより、他人からの要らぬ注目を避けられるという寸法だ。
 なに? ずいぶん短絡的な発想?
 まあ、そう思って嘲り笑うやつもいるかもな。だが、そんなやつははっきり言って素人だ。どうせこの対処法に周囲からの視線を逸らす事以外の有用性を見いだせていないのだろうからな。
 断っておくが、これは突発的閃きでもなければ、浅はかなこじ付けでもない。長年妖怪事案に悩まされ続けてきた俺が、経験則から熟考を重ね、漸く辿り着いた結論である。素人の浅知恵と違い、実に洗礼された対処法なのだ。その辺、勘違いしないで頂きたい。
 この対処法には周囲の人間からの注目を避けられる事以外にも副次的なメリットが有るのだ。それは妖怪との遭遇機会を減らせるというものである。彼ら妖怪は、往々にして視えない人間よりも俺のような視える人間に対し、ちょっかいを出したがる傾向が強い。なぜ故そうなのかは妖怪でない俺には皆目検討もつかないが、とにかく過去に遭遇した彼らの多くがそうだったので統計的にそうなのだ。そしてそうした妖怪の、視えない奴より視える奴に群がり易いという習性を踏まえれば自ずと答えが見えてくる筈である。俺が妖怪を無視したとする。妖怪達は俺の事をどう思うか? おそらく彼ら妖怪は俺が視えない人間であると誤認するはずだ。となればどうだ? 視えない人間認定した俺に妖怪達は寄り付かなくなると思わないか? それは即ち妖怪との遭遇機会が減るという事に他ならないだろ。
 つまりこの無視作戦、俺が周囲の人間から注目され難くなると同時に妖怪との遭遇機会が減る、遂行すればするほど妖怪と疎遠になり人間関係の支障が減っていくという、好循環で相乗効果抜群な代物なのである。
 どうだ? 決して短絡的な発想ではないだろ?

 ともあれだ。こうして妖怪対策に万全――― とは言えないまでも八千全くらいは期した俺は、これまでの劣悪な環境から脱却すべく、人生をリスタートさせる上で絶好の機会たる高校生活の始まりを迎えたわけである。
 確信とは言えないまでも自信はあった。自身の境遇から脱却できると思っていた。そして実際にそれは上手くいっていた。少なくともアイツに出会うまでは―――――
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一尾

きつねのかがりび(仮)

「きゃっ!」
 昇降口の出先でぶつかりそうになった誰とも判らぬ女子生徒の声が耳に届く。
 それでもこの俺、明松灯輝(かがりともき)は構わず走り続けた。振り向くこともしなかった。それどころではなかったからだ。

 彼は脇目もふらず疾風のように駆けていった。

 少々安っぽい文学表現かも知れないが、端から見たらそんな光景だったに違いない。
 桜前線到達から幾許か時が経ち、艶やかだった白き衣の並木道は新緑のアーチへと移行を始めた四月下旬。晴天に恵まれ、心地良い春の陽気に満ちた午後のひと時。当日の全日程を終え勉学という拘束から開放された学生達により、校内は賑やかな交流の場と化している。
 それは、そんな学園生活において何処にでもあるような典型的放課後の一幕での事であった。

「くそッ、結局、こうなるのかよ」
 俺は息急き切って駆けながら、肺胞に染み出した二酸化炭素と共に吐き捨てる。
 それは後悔と失望を混ぜ合わせた嘆きであった。
 ともあれ、今は感傷に浸っている暇はない。目下のところ俺は全力を持ってアレを撒き、一刻も早く身の安全を確実のものとしなければならないのだ。感情に振り回されている余裕などなかった。
 尤も、実のところアレが実際に追いかけてきているのかは疑わしかったが。何せアレを振り切ってから俺は一度も後ろを振り返っておらず、直接それを確認したわけではないのだから。
 だが、それでも俺が悲鳴を上げる肉体各所に鞭打ちながら視認作業よりも全力疾走を優先していたのは、万が一にもアレの追随を許したら、冗談抜きで致命的結果を招きかねない状況だからに他ならなかった。
 つまり走行フォームとして合理性に欠ける後方視認動作なんて無駄な事はとてもじゃないが取っていられない程に、今はのっぴきならない状況なのである。

 故に俺は一心不乱で何処へともなく走り続けた。(まあ一応、電車通学なので最寄り駅方面には逃げていたがな。)
 走り続けてどれくらい時が経っただろうか―――と言っても、陸上長距離選手でもない俺が走り続けられる程度のことであるが。
 ともあれだ。健康優良高校生でも酸欠と疲労で意識が朦朧とし始めるくらいは走ったところで、俺は霞む視界の端に大きな鳥居を見つけたのである。そういや、登下校の際に何度か目にした事があったような……。
 まあ何にせよ、立派な鳥居であった。
 あれだけ立派な鳥居であれば、そこにあるのはそれ相応の神社だろう。俺のスタミナも無限ではないし、渡りに船であるのは間違いないと思った。
 進路変更。俺は駅へと続く大通りから脇道に逸れ、一路その大鳥居へと舵を切るのだった。

 近くまで行くと、しっかりとした石造りの鳥居の先には高低差二メートル程の石段があり、その先にある参道へと続いているのが見えた。
 よし。
 俺は疲弊した肉体に気合という名のムチを打ち加速をかける。ゴールが見えたので、ラストスパートというやつだった。
 鳥居の下を抜け、石段を二段飛ばしで駆け上がった俺は、そのまま巨木に囲まれた参道を駆け抜け境内に進行、神社の拝殿まで辿り着くと、漸くと言った具合にその足を止めるのだった。
 視界が眩み、喉は焼けたように痛む。慣れない過重労働を強いられた我が肉体は、その苛辣な任から開放されてもなお悲鳴を上げるのをやめそうになかった。立っているのもしんどかったので、早急にその場にへたり込んで回復に努めかったのだが―――その前に確かめねばならぬ事がある。
 俺は後方を振り返り、今しがた走り抜けてきた参道の様子を伺った。
 綺麗に敷き詰められた石畳の道、その脇に等間隔で建立されている朱で塗られた灯籠、周りは手入れの行き届いた木々が生い茂っているだけ。別段怪しげなものなど居ない、よくある神社の境内そのものであった。
 ここで漸く俺は「はあ」と安堵の息を深く吐き出すと、拝殿の前にあった段差の所に倒れ込むように腰を下ろすのだった。
 暫し肉体の回復に努める。幸い木々に囲まれた境内は街中に比べ涼しく、時折吹く冷たい風は火照った体を冷やすのにちょうど良い。
 さてカロリー消費で上昇した体温が平常値に戻るまでには、今暫く時間がかかりそうである。今のうちに俺の身に降り掛かった災難について、ここでおさらいするとしよう。今後、似たような過ちを繰り返さない為にも、事態把握と反省は大事であるからな。
 そんなわけで俺は幹の間から差す木洩れ日を静かに浴びながら、落胆の溜息を漏らして事の経緯を振り返る事にした。
 いったい何故こうなったのか? と―――――




―――――それは遡る事ほんの十数分前、つい先刻の事であった。
 本日のカリキュラムを終えて各自解散となった放課後の始め。俺は当たり前のように教室を後にしていた。帰宅部所属の俺にとって帰宅行動というのは野球部がキャッチボールで肩を温めるのと同じくらい不変のルーティーンに他ならないからな。
 要するにそこまではいつもと変わらぬ通常業務、平穏平和な放課後の一時だったわけだ。ホント、この時まではな。
 そんな規定路線からの逸脱を余儀なくされたのは、俺が帰宅の徒に就くべく昇降口へと向かうため、特別教室棟へと続く渡り廊下の連絡口付近を歩いていた時の事だった。
 唐突に特別教棟方面より耳障りな声が渡り廊下を伝い、違法改造車のエンジンが奏でる爆走音の如く響き渡ったのだ。
 それは笑い声で賑わう学校の放課後ライフに似つかわしくない擦れた甲高い声。断末魔の叫びとも取れそうなもので、俺の聞き間違えでなければ日本語で助けを求める際に発する類の言葉だった。一般常識の観点からすれば、何らかの事件性を否が応でも連想させられる事象だったと思う。人並みの正義感を持ち合わせている者ならば、熱血名探偵でなくとも、急いで駆け出したのではなかろうか。
 よって俺も気が付けば特別教棟に向け駆け出していたのである。そこに落ち度はなく、寧ろ必然の行動だったとさえ言えるわけだ。もっとも今にして思えば、この時点でおかしな点に気付くべきだったのかもしれない。何せその判断は、飽く迄も一般常識の範疇での事だったのだから。
 ともあれ俺は特別教棟に向かったのだ。
 公立校らしい飾り気のない扉を開け中に入ると、そこには一切の人影が無く、生徒で賑わっていた通常教棟の騒ぎが嘘のように静まり返っていた。
 特別教棟はその名の通り理科室だの音楽室だの家庭科室だのと特定条件下でしか使われない教室がその大部分をしめている。使用頻度の関係上、必然的にノーマル教室がある通常教棟に比べて教師や生徒の往来が少なくなるので驚くほどの事でもなさそうだが―――――
 しかしなぁ……。
 つい今しがた悲鳴(のようなもの)を耳にした後である。流石にただの静寂とは思えない。と言うか寧ろ事件性を意識せずにはいられない。何か後ろめたい事を起こす場合、人目につくのとつかないの、果たしてどちらが都合が良いだろうか。断然、後者に決っている。人気が無いという事は、その悪事を暴く目撃者が現れない事を意味し、それは事件を起こし易い状況に他ならないのだ。つまりこの静寂というのは、現状でより事件性を連想させる要因というわけである。
 俺はごくりと生唾を飲み込んで緊張を高めた。
 そんな矢先である。
 再び先程と同様、いやそれ以上の絶叫が廊下の奥から駆け抜けて来た。より鮮明に、より荒々しく、凡そ学校という場に似つかわしくないそれは、思わず耳を塞ぎたくなるほどに俺の鼓膜を激しく揺さぶった。
 背筋に冷水を垂らされたような悪寒が走る。
 やばいな。
 直感的にそう思った。
 一旦、引き返して人を呼ぼうかと迷う。
 しかしながら、今の絶叫が本当に悲鳴だったとするならば、かなり切迫した状況が予想される。人命に係わりそうな雰囲気すら感じられた。であるならば一刻の猶予もないと考えるのが自然である。
 僅かな逡巡の末、俺はその重くなった足を更に前へと進める事にした。
 相も変わらず人っ子一人見当たらない廊下を進んでいくと、数ある特別教室の中で一か所、視聴覚室の引き戸だけが大きく開いているのが目に止まる。聞こえた叫び声が鮮明であり、廊下にそれらしいものが無い以上、俺の疑念は当然の如くそこへと向かった。
 俺は念の為、引き戸へと続く廊下の壁際を細心の注意を払いながら忍び足で近づいていく。そうして開いた出入り口の脇まで辿り着くと、中から悟られぬよう壁際に身体を隠したまま、ゆっくりと顔を半分だけ出して中を覗くのだった。
 薄暗くてよく見えない。視聴覚室だけあって暗幕が掛かっているようだった。
 仕方がないので開いた引き戸と暗幕の隙間から差し込む僅かな外光を頼りに目を凝らす。まあ幸い、我が校の視聴覚室なんてのは前面に投影用スクリーンを備えているだけで、あとは会議用テーブルとパイプ椅子が雑に並べられた簡素な作りである。さして身を隠すような死角もなく、幾ら視界が薄暗いと言っても、人の有無を視認するのにそれほどの支障はなかった。
 見た限り人影はなし。念のため上半身だけ室内に乗り出してもう一度中を覗うも、やっぱり人の姿は見当たらなかった。結論、視聴覚室内には生徒も教師もそれ以外の部外者もいなかったわけである。
 俺はとりあえずだがホッと胸を撫で下ろした。誰もいない以上、先程の悲鳴(仮)とは無縁と結論付けられそうだったからな。
 だが安心するにはまだ早かったようである。なぜなら僅かに気を緩めて間もなくの事、腹に響く不気味な低い掠れ声が頭上というあり得ない方向から降ってきたからだ。
「見つけた……」と。
 先程の悲鳴(仮)の時とは比べ物にならないほどの底気味悪い寒気が背筋を伝う。
 人気のない場所であり得ない場所から声を掛けられたのだ。恐怖に駆られるのは当然である。だが俺の場合はそれだけに留まらず、明確な危機感と後悔が同時に沸き立っていた。なぜなら俺は経験上、自身が今置かれたこの状況を即座に理解し、ここに至るにあたり根本的な思い違いをしていた事を悟ってしまったからである。
 俺はゆっくりと自身の上方に顔を向けた。
「やっぱりな……」
 思わずそう漏らしたのは、想定通りの光景がそこにあったからだ。
 薄暗い室内でもはっきりと見える黒い靄の塊。大きさは両腕を目一杯伸ばさないと抱えられない程だろうか。その黒い靄の塊が天井と壁の境にへばり付くように留まり、人の頭程ある大きな単眼で俺を見下ろすように凝視していたのだ。
 つまりそこには“妖怪”がいたわけだ。
 考えてみれば初めからおかしかったのだ。俺がここに来た最初のきっかけは、助けを乞う叫び声だった訳だが、あれだけ盛大な声(しかも二回)を聞いて他の生徒が誰一人として駆けつけて来ないのだからな。普通、あんな突拍子もない声を聞いたら、どんなに少なく見積もっても野次馬の一人や二人は必ず現れるというもの。そもそも、好奇心旺盛な高校生が多数詰めかける学び舎で、誰一人として騒ぎださなかった事自体が大いに不自然だったのだ。
 だが、この一つ目妖怪を見て納得である。あの声が妖怪の声だとしたら、駆け付けたのが俺一人なのは当然の結果に他ならない。何せ俺以外の誰にもあの声は届いていなかったのだから。
 初めの悲鳴が助けを求める声だったとするなら、恐らくあれは妖怪同士のいざこざか何かが原因の事だろう。時に人が人を襲う事があるように、或いは動物が動物を襲うように、妖怪が妖怪を襲ったとしても別段珍しい事ではない。目の前にいる一つ目妖怪がどちら側だったかはわからないが、どのみち人間が与り知らぬ領分での出来事だったに違いない。たまたま関与可能な俺が居合わせてしまっただけで、本来ならば人知れず終わっていた事なのだ。
 要するに先程の悲鳴(仮)と人間は無関係であり、事件性など皆無、俺が急ぎ駆けつける必要など微塵もなかったわけである。
 全くもって悔やまずにはいられない。
 いや別に無駄骨をおる結果になった事を嘆くつもりはないさ。というか寧ろ人的被害がなかった事を悦ばしく思っているくらいだ。ただ、平穏な学園生活を送るため妖怪との距離を置くべく奔走していた身としては、自ら下手を打った形となった事に対し悲観せずにはいられないのである。
 ともあれ―――今はそんな一時的感情に構ってはいられないので、実際に落ち込むのは後回しにしなければならない。何故なら俺は目下のところ、可及的速やかに対処せねばならない事態に直面しているからだ。
 一体それは何かって? 
 そりゃあ勿論―――――未だ俺の顔をじっと凝視し続けている黒靄の一つ目妖怪の事に決っているだろ。本来出くわす筈のなかった人間、しかも妖怪の事を認識できる俺という存在と対峙したこの一つ目が、この後一体どういった行動を起こすのか、って事さ。
 俺は長年の経験から容易にそれが想像出来てしまう。ハッキリ言って碌な絵面が浮かばない。
 そんなわけで、俺は冷汗が噴き出すのを全身で感じながらゆっくりと体勢を整え、逃げる準備に取り掛かる。無論、一つ目妖怪からは一時も目を離さない。よく言うだろ、山で熊と遭遇したら絶対に目を逸らすなとか、なんとか。アレと一緒だ。もっとも相手は熊でもなければ、そもそも動物と分類していいのかもよくわからない存在なので、効果の程が如何ばかりあるのか、甚だ疑わしかったが。まあでも、やらんよりやっといた方がマシならば、やっておいて損はない。それ程までに退っ引きならない状況と言えなくもなかったからな。
 実際、俺のその判断は間違っていなかったと思う。この時、一つ目妖怪のギョロリと飛び出た眼球は黒目部分が俺の動きを追尾するように動いており、明らかにロックオン状態であると認識できたからだ。獲物を狙う狩人のような目を向けられて能天気に楽観視するのは愚の骨頂に他ならないだろ。
 ともあれ、こうして俺は次なる行動、即ち逃走の機会を覗っていた。
 しかしながら狩る者と狩られる者、主導権がどちらにあるのかと言ったら、やはり前者の場合が殆どである。そして本件もその例に漏れずの結果だった。
 先んじて逃走行動に移りたい俺の思惑に反して、一つ目妖怪に先手を打たれたということだ。
 一つ目妖怪は唐突に目を細めてニンマリと笑うと、再び擦れた声でボソリと呟いた。
「見つけた……」
 それが狩の始まりを告げる合図なのは明白だった。怪奇案件の経験豊富な俺の本能がこの場に留まる事を強烈に拒絶したのだからな。
 直ぐ様駆け出しその場を退散する。元々そのつもりだったので準備は出来ていし、イメージも完璧だった。実際、四肢への伝達も完璧だったと思う。現に俺の脚には、確かに床を蹴った感触がはっきりと残っていたのだからな。
 だがその思惑に反して、俺の身体はその場から離れる事を許されなかった。正確に言えば、左腕を基点に引き戻されたと言うべきか。
 俺は慌てて自分の左腕を見る。すると腕にはいつの間にか、紐のように細長い黒い靄が幾重にも重なり絡みついていた。それは一つ目妖怪から綱のように伸ばされた黒靄だった。やつの方が一足早く、逃走防止に俺の腕を捕まえていたというわけだ。
 俺は足を踏ん張り強引に自身の左腕を引き寄せ黒靄を引き剥がそうと試みる。しかしこの靄、見た目こそ綿菓子の様に脆そうなのに、幾ら引っ張ろうともワイヤーで絡め取られたようにビクともせず、引き千切れそうにもなかった。
 危機感は急上昇、恐怖も一気に込み上げる。
 さらにそんな俺に追い打ちをかけるように、靄の絡みついた左腕にはジンジンと冷たくも熱いという体験したことのない不気味な感覚が広がっていく始末。腰を抜かしそうになるのを必死に抑えるので精一杯だった。
 程なくして一つ目妖怪は音もなく視聴覚室の床に舞い降りたかと思うと、じわりじわりと綱のように伸びていた靄を引き寄せ始める。それは俺の力では抗いようのない圧倒的な力強さだった。引きずられるようにして俺の意志とは無関係にその距離が縮まっていく。
 宛ら釣り針に喰いついてしまった魚状態。不用心に近づいた己の浅はかさと無力さが恨めしかった。まさかこんな形で釣り人に捕獲される魚の気持ちが解るとは思わなかったぜ。
 釣られた魚に妙にシンパシーを感じながら、いよいよ脳裏をちらつき始める観念の二文字。いっそ致命的な結果を迎える前に、明るい学園生活を諦め〝イタい奴〟のレッテルを張られる覚悟で大声を上げようかとも考えた。
 しかしながら、それより先に窮鼠猫を噛むではないが追い詰められた俺の必死のあがきが功を奏し、幸運にもその難は逃れる事となる。
 どうにかしようと自由の利く右手を振り回したり、目一杯伸ばしたりしたところ、偶然にも開きっぱなしであった視聴覚室入り口の引き戸に手が掛かったのだ。
 俺はここぞとばかりにその引き戸を思い切り閉めてやった。安作りのなんちゃってとはいえ一応防音対策が施された引き戸、通常より重厚である。それが見た目通りの重く沈んだ音を奏でて俺のいる廊下と妖怪のいる室内を隔絶するように勢いよく閉まったのだ。この衝撃には流石の一つ目妖怪も堪えたらしく、絡みついていた黒い靄がスルリと左腕から零れていった。
 かくして再び自由を手に入れた俺は、捕獲寸前に釣り針から逃れ大海原へとダイブした魚の如く、一目散にその場から逃げ出したのだった―――――




―――――さて、これが疲労困憊で神社でのブレイクタイムを余儀なくされた逃走劇の発端である。やれやれ、とんだ災難だ。
 俺は思い返して思わず苦笑する。
 そして、ふと思う。
 果たしてあの一つ目妖怪はどうなったのか、と。
 だがそんな疑問はすぐに火照った身体を優しく撫でて去っていく春風に乗せて、空の彼方へ吹き飛ばした。
 考えるだけ無駄だからだ。結果的に逃げ果せた今となっては、それは最早知る由もない事である。なぜ一つ目妖怪が視聴覚室(あの場所)に居たのか、いつもそこに居るのか、偶々居ただけか。俺には何も解らないし、調べる術もない。そもそも妖怪とは突然現れ、突然去っていく、自由気ままで理不尽な輩である。それを俺は嫌と言うほど思い知らされて生きてきた。だからこそ、その結論に至るのだ、考えるだけ無駄であるという結論に。
 大体、知ったところで何かがどうなるわけでもない。仮にあの一つ目妖怪が視聴覚室に常駐していたとして、俺に奴をどうにかできるような力は無い。かと言って「君子危うきに近寄らず」ではないが、再び襲われる危険性を考慮して、暫く登校を控えるなんて我が儘を通す地位も権力も持ってはいない。要するに俺が今後取る行動はその結果が如何なものであろうとも変わらず、今まで通り学校には通わなければならないし、そこで生活しなければならないのである。そうした俺の都合の観点からも無駄であろう。
 幸い、今回は事の顛末を他の生徒や教師といった他人に見られずに済んでいる。実害なんてものは俺が小便チビりそうなくらい怖い思いをしただけという一時的なものしかなく、学園生活における不都合は生じていない。被害は最小限に抑えられ平穏な学園生活を守るという本質は失っていないので、済んだ事と割り切るのが得策だ。下手に深追いして本末転倒になっても事だからな。
 であれば、強いて俺が出来る事といったら、金輪際あの一つ目妖怪との関わりを持たぬよう願う事くらいであろう。よって、当面はそうならないよう自ら望んであの視聴覚室に近づこうとしない事、怪しい声を耳にした時はまず周りの人間の反応を確認する事、以上二点を徹底すると定め、今回の考察と反省を終える事にした。
 まあちょうど過重労働を強いられグロッキー状態だった心肺機能も落ち着きを取り戻してきた事だし頃合いだろう。
 かくして、考え事もなくなり体力も回復してきた俺。周りの景観に目を配るくらいの余裕も出てきたので、改めて周囲を見渡してみる。時間帯故か参拝者こそ居なかったが、改めてそこがそこそこ立派な神社だと知る。境内は拝殿のみならず狛犬や灯籠、その他もろもろまで年季と手入れが同居しており、そこから醸し出される貫禄のようなものがひしひしと感じ取れるのだ。この辺ではそれなりに名の通った神社なのではなかろうか。
 どうやら俺の取った行動は正しかったと言えそうだ。経験に基づくに、格式高い神社ならば、そう簡単に妖怪は入って来られない筈だからな。仮にあの一つ目妖怪が実はすぐそこまで俺を追いかけて来ていたのだとしても、ここならばやり過ごせそうだ。
 てなわけで、神社の外で一つ目妖怪が彷徨いている可能性も考慮して、俺はそのほとぼりが冷めるまでここで暫く時間をつぶす事にした。
 ただボケっと座り込んだまま待つのもなんなので、俺はゆっくりと立ち上がると、拝殿の賽銭箱に歩み寄る。どんな神様が祭ってあるのかは知らないが、ほんの少しとは言え居座らせてもらう身、礼のひとつも言っておこうと、大層に言えばそんなところだ。まっ、実のところは神社に来たので折角だからお参りを、という日本人気質が顔を覗かせただけだったりするが。
 ともあれ俺は賽銭を投げ入れようと、財布から光沢のない古びた五円玉をつまみ上げていた。
 それはそんな折の事だった。
 気付いたのは偶然である。
 ただここに至る経緯を考えたら必然だったのかもしれない。
 何にせよ、俺はその時、そこはかとなく後部上方に気配を感じ振り返ったのだ。
 そして俺は驚愕した。 
 体を捻り空を見上げた先、そこにはなんと狐が居た。足場のない空中だった。
 それは太陽の光を柔らかく拡散し、まるで光り輝いているかのように煌びやかな金毛を靡かせた紅色の目をした狐。美しいとの形容が如何にも似合いそうな風貌だった。
 その狐は大きかった。神社を囲む巨木の群れが若木の集団に見える程の巨体。凛々しく力強さに満ちていた。
 そして、筆頭とするべきは尻尾だった。狐の尻には、種の特徴とも言える立派な尻尾がなんと九つも生えていたのだ。尤も、実際にちゃんと数えたのかと言えば、そうではない。それは【尻尾が多い狐】=【九尾の狐】という少し妖怪に精通していれば当たり前のように持っている知識に基づいた、俺による独断と偏見による結論である。何せ靡く毛並みで輪郭がぼける尻尾の数々が幾重にも重なり個々の判別を難しくし、遠目では数えるのを断念せざるを得なかったからな。だが、概ね正しかったと自負している。なぜなら異質であるにも関わらず堂々と生えるそれらの尻尾が、狐に一際風格を持たせ優雅たらしめていたのは確かだからだ。


 詰まるところ、そこには神々しくすら見える大狐が紛れもなく居て、俺は崇高なるその姿に驚嘆をもって魅せられていたのだ―――――

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二尾

きつねのかがりび(仮)

 一つ目妖怪から逃れるようにして偶然立ち寄った学校近くの神社。ここに突然現れた優美で凛々しく神々しい九つの尻尾を持った大狐。俺は財布の片隅から賽銭用にと五円玉を摘み上げたまま、神様への挨拶など忘却してその姿に見入っていた―――――


 暫くするとその大狐は、どんな揚力を得ればそうなるのかは解らないがヘリコプターがホバリングしながら着陸する時のようにゆっくりと拝殿の前にある開けた場所へと舞い降りて来た。ただしヘリコプターと違い喧しいエンジン音が無いので、それは大層神秘的な光景として俺の目に映る。
 当然ながら、この時既に俺はその狐が普通ではない事に気付いていた。つまりはそれが俺にしか見えていない光景であると認識していたわけである。まあ事の発端からして先程の一つ目妖怪の時と違ってわかり易い光景であったので、当然と言えば当然である。とは言え、その一つ目妖怪案件の教訓を活かすというのであれば、もう少し警戒を強めるべきであったのかもしれない。しかしながら、どういうわけだろう。神社特有の神聖な空気がそうさせたのか、はたまた目に映るその狐の優姿に心奪われたからなのか、俺は自分でも驚く程に悠然とその様子を眺めてしまっていた。
 そうしているうちに、狐は俺から数メートル先の地面へと静かに降り立った。狐が地に足を付いた瞬間、そこにあった空気が押し出されるように周囲へ弾け風が起こる。まるで歓声でも上げるかのように草木がざわめき、甘い香りを帯びた心地良い空気の波が俺の身体をすり抜けていく。
 俺は壮麗なその景観に魅入っていた為、微動だにしないオブジェと化していたと言える。その為、俺の姿は周囲の景色に溶け込んでいたのかもしれない。狐は俺の存在に気付く素振りも見せず、尻を突き上げ背を伸ばしながら、気持ちよさそうに目を細めていた。
 真に美しいものというのは、何をしても画になるものなのだろう。そんな生活感の垣間見える素朴な仕草すら格好良く見え、俺の目を釘付けにする。
 いつまでも眺めていたい、そう思いたくなる光景であった。
 だが俺はそんな有意義極まりない時間を自ら壊してしまう事になる。余りの放心ぶりに参拝用にと摘んだままでいた五円玉を意図無く手放してしまったのだ。
 俺の手からこぼれた五円玉が地球の引力に引かれ地面に落下すると、黄銅で作られた金属製硬貨と足元に敷かれていた神社の石畳が交錯して乾いた金属音が響く。
 それはまるで舞台の閉幕を告げる鐘のように、静寂な境内を飛び交った。
 反射的に狐の耳がピクリと動き、一瞬遅れてその顔が俺へと向けられる。無駄の無いその機敏な身の振りは、否が応でも野生の獣を連想させるものだった。
 そんな狐と視線がぶつかる。俺は反射的に不味いと思い身体を硬直させた。
 案の定と言うべきか。狐は足音静かにゆっくりとこちらに近づいて来た。獣特有の鋭い眼で真っ直ぐと俺を見据えながら、ジリジリと距離を詰めて来るその姿は、まさに狩り(ハント)を連想させるもの。互いの体格差は比べるまでも無く、毛皮越しにも分かるしなやかな筋肉の流動を見る限り、格闘は愚かスプリント勝負を仕掛けたところで先ず勝てないだろう。
 抗う事も逃げる事も無理とあらば、果して俺は他にどのような対応策を取ればよいのだろうか。
 平静を装いながら内心焦っていると、みるみるうちに狐は俺の目前まで歩み寄ってきた。
 まるで巨大な壁のように、傾いた日の光を遮る狐。 間近でみると改めてその大きさに圧倒される。見上げた首が痛かった。
 只々狐の行動を目で追うことしか出来ない俺。そんな俺の姿はいったい狐の目にどう映ったのだろうか。
 狐は俺に顔を近づけると、鼻をゆっくりと押し当ててきた。
 前途で述べたように圧倒的な体格差がある為、如何に狐がゆっくり押し当てようとも、俺は大きく体勢を崩してしまう。
 よろけて二三歩ふらついた俺はいよいよ身の危険を感じ、咄嗟にある行動を取った。
「い、いや~……今日は風が強いなぁ~」
 すっとぼけたのだ。視えないフリである。俺は妖怪が見えるが、それは人間として異質である。ならば妖怪にとっても自分達を視認可能な俺のような人間は異質な筈である。この狐の行動を見る限り、その異質に感付き興味を示した節が見て取れるため、俺はそれを逆手にとってその可能性を排除、興味を逸らせようと考えたのだ。まあ、早い話がこの土壇場で例の無視(スルー)作戦を発動させたのである。この期に及んで無理があるだろ、と思いがちだが、【人間に妖怪の姿が視えるわけがない】という疑念がそこにあるのなら話は別である。誰しも非常識とは受け入れ難いもので、こうした常識から乖離した疑念というのは多分に判断を鈍らせるからだ。視える人間の希少さ、非常識具合を考慮すれば、先程までの俺の行動、即ち目があったり、多少動きを追ってしまった程度の事であれば、いろいろと偶然が重なり偶々そう見えただけと誤認させるのも充分可能と言えるのである。
 しかしながら、俺の思惑を嘲笑うかのように狐は再び鼻を押し当ててきた。
 先程同様よろける俺の緊張感は増す。だが動じる事はなかった。俺とて、そうすんなりと狐が誤認してくれるとも思っちゃいないからな。
「ホント今日は風が強いな」
 様子見という事で、俺は再びすっとぼけてみせた。
 そんな俺を狐はまたしても鼻で押してきた。随分と疑り深い狐のようだ。
 俺は更にすっとぼける。今更ここでやめるわけにもいかないからな。
 それでも狐はまたも俺を鼻で押した。
 ここから暫く、この押し問答のような応酬が続く事となる。狐が俺を鼻で押し、それを俺がとぼけてやり過ごす。それは意地の張り合いとも言える様相だった。
 狐に押されること十数回。これだけ続くと流石に自分の下した判断に自身が持てなくなってくる。つまりは、既に俺が視える人間だと狐に感づかれているのではないか、との疑念が湧いてくるのだ。加えて実際には〝押される〟と〝すっとぼける〟の間に〝よろけてふらついてから体勢を立て直す〟という動作をしていたので、先程まで疲弊して身体を休めていた身としては体力的に辛いというのもあった。
 そんな諸々の事情もあり、そこから更に数回ほど応酬が続いた後、俺は遂に現状に耐え兼ね、狐の小突きを避けてしまうのだった。
 俺が躱した事により空を突く格好となった狐。そんな狐はその空を突いた状態でピタリと動きを止めると、一拍あってから顔の向きはそのままに躱した俺へと紅色の瞳を動かして視線を向けてきた。
 獣特有の縦に細長く割れた瞳孔を向けられ、迂闊に避けてしまった事への後悔と共にたじろぐ俺。
 沈黙すること約二秒。
 狐はゆっくり身を起こすと、体勢を直し改めて正面から俺を見据えた。
 見上げるほどに大きな狐と真正面から向かい合う形となった俺は、ゴクリと生唾を飲み込んで只々成り行きに身を任せるしかなかった。
 そして更に沈黙すること―――いや、もうこの状態では俺の体感時間など当てにならん。とにかく幾ばくか間があった後だ。
 狐が再び俺に鼻頭を当てようとしてきたのだ。
 俺はするりと身を躱してそれを避ける。既に一度避けてしまったのだ、今更元の見えないフリに戻すのは寧ろ不自然、いや無意味である。ならば疲労(ダメージ)の少ない方を選ぶのが常套というものだ。
 かくして再び空を突く事となった狐。またしてもその瞳で俺を凝視した後、身を起こして正面から見据えてくる。
 相変わらずの迫力ある光景に俺の身体は硬直し、体中から体温調節とは明らかに違う、冷たいのか温かいのかもわからない汗がにじり出る。蛇に睨まれた蛙の気持ちが少し解った気がした。
 ここでの沈黙は一際長く感じられた。何というか、最後の裁定を待つ気分だな。
 こうして俺が固唾を飲んで様子を窺っていると、
「ほにゃ!? 貴様、妾が視えるのか?」
 唐突に狐が獣とは思えぬ若々しい女のような声をあげた。表情豊かに目を見開きながら、明らかに驚いた様子で俺を見ながら。
 俺は強張っていた全身の筋肉が一斉に緩み脱力する。狐の仕草も然ることながら、間の抜けた擬音語と緊張感の無い口調によるところが大きかった。
「ふにょ!? もしや声も……」
 狐は俺の反応に更なる驚愕を見せる―――が、すぐに「いや待て、この場に居る時点でそれは当然と考えるべきか……」などと小声で漏らしながら考え込んでしまった。
 その後暫く、狐は『人払い』がどうとかと、俺には訳の分からないような独り言をぶつくさと口にして、うんうん唸っていた。
 この間にそっと逃げだそうか、とも考えたが、それはそれで後味が悪そうだったのでやめておく。俺とて物心ついた時から怪しげなものを見続けてきた身。その辺の経験はそれなりに豊富だ。だから経験から知っているのである。妖怪と呼ばれる者達が、必ずしも人に有害であるとは限らない事を。妖怪の中にも友好的に接してくれる奴はいるし、俺なんかを慕ってくれるような変わり者だって過去にはいた。妖怪とて千差万別、悪い奴も居れば、良い奴も居る。気の合う奴も居れば、どう頑張っても相容れない奴もいる。人付き合いと一緒だ。学校で遭遇した一つ目妖怪は明らかに俺とは反りが合わない有害な奴だったが、この狐にはそれ程それを感じない。まあ正確には先程の狐の間の抜けた仕草がそうさせたと言うべきだが。
 ともあれ、そんな相手に無断で逃げ出す様な真似は些か気が引けるというものだ。
 そこで俺は、多少逡巡した部分もあったが「……あの~」と狐に声を掛けてみることにした。
「おっと、失敬。つい考え事を。……で、なんじゃ?」
 相変わらず緊張感のない口調で答える狐。妙な親近感を覚えながら、それでも俺は慎重に言葉を選びながらおっかなびっくり訊ねる。悪意を感じられないからと言って友好的とは限らないし、互いの戦闘能力の差が埋まった訳でもないので油断は禁物だ。
「俺……いや、僕このあと所用がありますので……この辺で失礼させて頂いても……」
「所用って?」
 即座に狐からそんな質問を返された。しかもそれは前のめりにその大きな顔を急接近させてきた狐の視線を一身に浴びながらだった。
 当然ながら所用などと言うものはその場を逃れる為の方便であり、実際に有りはしない。よもや会って間もない相手にそんな事を訊き返されるとは思ってもみなかった俺は答える術を持たずに口籠る。
 そんな俺に狐は訝しげに眼を細めながら顔を近づけると、
「解りやすい奴じゃな……」
 俺は即座に謝ったね。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
 狐の言葉がどういったものかというのは関係が無かった。俺はただ狐から発せられた言葉に脊髄反射するが如く、謝罪を連呼していた。気持ちと言うものはちょっとしたきっかけでガラリと豹変てしまう。先程の俺が良い例だ。寸前までガクブルだったのに、狐の取った些細な行動一つで簡単に安堵してしまったのだからな。そして気持ちの移り変わりというものは、これまた先程の俺の様に好転する事もあれば、逆に悪化する事もある。狐を出し抜いてその場を逃れようとした事実から見ると、今置かれた俺の状況は明らかに後者の可能性が高いと思われ、所謂半ばやけくその謝罪、怒り出す前に謝り倒そうとした訳である。
 すると、
「別にそこまで謝らんでもよい。妾ほどの妖と対峙しておるのじゃ、多少気が動転しておかしな事を口走ったとて仕方の無い事。いちいち責めやしないわ」
 意外にも狐は怒る事も無く、寧ろ俺を気遣うかのように穏やかな口調でそう言った。
 俺は夢中で同一単語を繰り返していた口を止め、改めて狐を見る。相変わらず目の前には狐の大きな顔があり、こちらの様子をじっと見据える瞳があった。ただ、その顔には別段威圧感も無く、どちらかと言うと微笑んでいるように見え、その上、不思議と恐怖が薄れていく抱擁力のようなものがそこにはあった。
「落ち着いたかや?」
 静まる俺を見て、狐は改めて穏やかにそう言う。そして俺が頷くのを確認すると、僅かに目を細めた後、近づけていたその顔を静かに離していった。
 一連の狐の行動は、俺が好感を持つには充分なものであった。……が、よく考えたら、その場を離れようとした事をやんわりと拒否られたとも取れる。暗に主導権は狐にあると示されたようなところもあるので、内心では複雑であった。
 ともあれ、今のところ心証は悪くないので、俺は暫く狐主導の流れに身を任せる事にする。幸い、狐の中で俺は強力妖怪に出くわしてテンパっている哀れな少年という事になっている様子である。となれば多少の不備非礼があっても大目にみてもらえる算段が立つというもの。それに弱者として気遣いを得られる分、下手にこちらから行動を起こし優位性を主張するより安全に事が運ぶだろうからな。
 そんなわけで俺が受け身の姿勢で構えていると、狐は早速「お主、名は何と申す?」と訊ねてきた。
 どうやら俺の判断は間違っていなかったようだ。狐が俺に危害を加えるつもりならばわざわざ名など訊いては来まい。
 俺は訊かれた通り、自身のしがない名前を名乗った。
 狐は名を聞くと、まじまじと俺を見ながら柔らかな声で「良い名じゃな」と微笑んで見せた。
 自分の名前を褒められて悪い気を起こす奴なんていないだろう。ましてこんな面と向かって堂々と言われたとあっては、例え相手が巨大な狐であろうとも、気恥ずかしさから頬を熱くしてしまうというものだ。
 俺は照れながら遠慮気味に礼を述べた。
 すると狐は、
「今度は妾の番じゃな」
 鼻息荒くそう言った。
 俺の名を告げたのだ。今度は狐がその名を告げてくる。話の流れ的には真っ当であり不満などもない。しかしながら、待ってましたと言わんばかりの気合の入りようが多分に見て取れれば身構えたくもなるというものである。
 悠々と身を起こし数ある尻尾を派手にうねらせる狐。何やら決めのポーズをとっているように見えたが、俺は敢えてそこに触れぬよう平静を装った。
 そして狐が名乗りをあげる、力強く悠然と。
「我が名はたまも。かの有名な大妖狐、白面金毛九尾とは妾の事じゃ!」
 たまもと名乗った狐は暫くそのまま動かなかった。どうやらあれは本当に決めポーズだったようである。ともあれテレビや映画じゃあるまいし、気の利いた効果音の一つも無いその振る舞いは何というか……お笑い用語的に「寒い」というやつで、近寄り難き負のオーラを多分に醸し出している。
 当然ながらリアクションに苦慮した俺は、それを遠巻き(心的な意味で)に見守る事しか出来ない。
 そんな俺の態度が気に入らなかったのだろうか、たまもは本日初めて声を荒らげて、
「何じゃその能面被ったみたいなリアクションは! 伝説の大妖狐に会えたのじゃぞ! もっとこう……心の奥底から沸き起こる感動というか、感情のうねりみたいなものがあるじゃろが!! 驚愕や感銘があるじゃろが!!! それとも何か、知らぬのか!? お主は偉大な白面金毛九尾の凄さを知らぬのか!? 無知なのか? 阿呆なのか?」
 荒々しい口調と共に吐き出されるその吐息は体格差の関係上、俺からしたらちょっとした突風のようで、髪が激しく掻き乱される。
 ぶっちゃけ、驚くとか驚かない、感動する、しない以前の問題だったわけであるが―――――鼻息荒く睨み付けてくる偉大なる大妖狐、白面金毛九尾たまも様を見る限り、とてもじゃないがそれを指摘する気にはなれないというもの。
 てなわけで、俺はたまもの主張に沿った返答を用意する。
「……いや、無かったわけじゃないですよ、情動。白面金毛九尾と言えば有名ですからね。唯……」
「唯なんじゃ?」
 鼻先で詰め寄るたまもに、俺は乱れた髪を軽く整えながら答える。
「こんな白面金毛九尾伝説と縁も所縁も無い土地にある、縁も所縁も無さそうな神社(場所)での事なので、何で居るんだろう、と疑問の方が先に立ってしまい情動が後回しになっているんですよ」
 白面金毛九尾の狐伝説ってのは俺の知る限りでは確か、かつて人に化けて宮中に紛れ込んだ九尾の狐が、好き勝手私腹を肥やした後、時の陰陽師に正体を見破られ逃走、どこぞの山奥に追い詰められながら大軍勢相手に奮闘するも最終的には敗れ、哀れ殺生石なる石にされてしまった、とかだったと思う。そしてこの街はそのどこぞの山奥ではないし、その近場でもない。加えてこの神社は拝殿の左右に立派な狛犬を構えており、稲荷神社というわけでもないので狐繋がりの線も排除されている。実際、ここはかの有名な九尾伝説からは無縁過ぎる場所なのだ。
「そんなの決まっておるじゃろ。妾は倒されてもいなければ封印されてもいなかった。ここには放浪中に休憩がてら偶然立ち寄ったのじゃ」
 決まっておるじゃろ、って言われてもなあ。
 あっけらかんと言うたまもを余所に、俺は寧ろ考え込む。俺の……というよりも世間の常識及び日本を代表する故事をあっさり全否定されても、戸惑うばかりというものだ。
「なんじゃい、その不審に満ちた目は!? 嘘ではないぞ! 何せ本人、いや本狐が言っておるのだからな!!」
 今はその本人であるかの議論中である。そんな破天荒な理由で納得出来るものではない―――――とまあ、普通なら考えるのだろう。だが俺は素直にその言葉を受け入れる事にした。彼女が白面金毛九尾本人ならぬ本狐だという、その言葉を。
 無論、本狐(本人)と結論づける明確な証拠など提示された訳ではないので偽者という可能性もある。だが、俺を魅了したその凛々しい姿と独特の身に纏う空気感。威圧感こそ無いものの、それらは本物の白面金毛九尾と言わしめるには充分であった。所謂、大物というのは相応の風格を持ち合わせているもの、というやつだ。勿論そんな個人的〝勘〟のようなものが世間一般において説得力たり得ないのは承知しているが、それでも幼い頃から数多くの妖怪と対峙してきた俺である。こと妖怪に関して言えば、そうした何となくの感覚でも確信を持ててしまうところがあるのだ。
 納得する俺にたまもはフフンと鼻を鳴らし何やら弾ませた声で、
「さあ、これで疑問も晴れスッキリしたじゃろ。心置きなく感銘の声をあげてみせよ」
 上機嫌なたまもには申し訳ないが、相変わらず俺は別段オーバーアクションをとる事も無く、その場に黙って立ったままだった。
「なぜ黙っておる? 超有名な妾に出会えて何も思わぬとか有り得ぬじゃろ。お主には感性というものが無いのか?」
 覗き込むようにして再び不満そうな顔を近づけるたまも。
 幾分慣れてきたとは言え、自分の身長よりも大きな獣顔を近づけられると、やはりどうしたってたじろいでしまうもので、俺は後ずさりしそうになるのを堪え苦笑いしながら謝った。
「すみません……」
 別に、何も思わなかった訳ではない。正直、すごいと思っている。相手は白面金毛九尾、妖怪としては超一級、俺が過去に出会った中でも断トツの知名度をもっていたからな。
 だが俺は別に妖怪マニアでもなければ、有名なものなら取り敢えず群がっておく生粋のミーハーというわけでもない。その上、曲がりなりにも妖怪エンカウント慣れしている身であるため、言うなればカテゴリーの不一致ってやつで、如何にその道の超一流と言えど、そこまで過度な反応は出来ないのだ。
 せめてこれがもっとこう……人として一般的な仰望対象というか、男として崇敬するというか、例えば有名女優やアイドルといった相手ならば、ミーハーではないと言えど、もう少し派手な反応を出来たかもしれないけどな。
 俺が冗談を交えつつ弁明すると、たまもはそれを聞くやいなや、
「何じゃ、人間の雌の姿なら感銘してくれるのか? それならそうと早よ言わぬか」
 なんとも珍妙な事を言ってみせた。
「今のは一体どういう意味で?」
 俺が不思議に思い聞き返すと、
「言葉のままじゃよ」
 たまもはそう答えニッと笑った。
 直後、たまもの艶やかな体毛が煌めき始めたかと思うと、瞬く間に眩い光へと変わりその全身を包み込む。まるで至近距離で車のヘッドライトをハイビームで向けられたかのように視界が白くとび、たまもの姿を見失った。
 それは目を覆いたくなるような眩しい発光現象だった。だがすぐにその光は収まった為、そこまで大袈裟な事はせずに済む。
 しかしながら、その代りと言っては何だが、光が収まり再びたまもの姿を捉えると同時に、俺は素早く首を九十度回頭、堅く目を閉じるようにしていた。
 何故か?って、理由は簡単だ。直視できない閃光よりも強烈なものがそこにあったからである。
 そんな俺にたまもは「どうじゃ?」と問いかける。
 目前は真っ暗闇、当然ながら俺は何も答えられない。
「こりゃ! せっかくお主の望み通り人の形を取ってやったんじゃぞ、目を逸らすでない! こっち見ろ! 見て感動しろ!」
 俺の行為が気に食わなかったのだろう、たまものむくれた声が耳に響く。
 俺は今日一番の困惑を持ってこれに答えた。
「……いや、そんな事言われても……ってか何で裸なんですか? 服着てくださいよ!」
 俺が瞬時に視界を絶った理由はこれだ。光が収まるとそこに髪の長い女性が居た。正確にはたぶん髪の長い女性、だ。如何せん目視時間が極めて短かった為、刻々と薄れゆく記憶の中で全体のシルエット位しか脳裏に残っていないのである。それでも、それの曲線美は女性のそれであり、それをそれと認識出来たという事はやはりそれはそれだったのだ。果たして俺は今、それと何回言ったのか。とにかく、事象説明がおかしくなる位、俺が平静を失う光景だったのは確かである。
「裸? 服?………ああ、そう言えば人間というのはそういう事を気にするのだったな……全く……面倒臭い奴らじゃのぉ……」
 俺の動揺とは裏腹に、なんとも緊張感の無い呆れたようなたまもの声。そこに俺の指摘に動じた様子など微塵も感じられなかった。
「ちょっと待っておれ」
 続けてたまもがそう言った。
 言われるがままに暫し待つ。無論この間、俺は一瞬たりとも目を開けてはいないし、顔も横に向けたままだ。全て聴覚のみによる状況把握であった事は俺の名誉の為にも、今一度強く主張しておきたいと思う。
 程なくしてスルスルと衣擦れする音が聞こえてきた。状況的に何かを着込んでいると想像するのは難しくなく、漸く俺はホッと胸を撫で下ろした。
 暫く衣擦れの音に聞き入った後、
「ほれ、着物を着てやったぞ。これで良いのじゃろ?」
 たまもに言われ、俺は回頭していた首を戻すと、ゆっくりと目を開けた。
 すると、そこには桜色の着物と紺色の袴を身に纏い、黒い革製ブーツを履いた髪の長い女性……いや少女が立っていた。細身でやや幼さの残る風貌。見た目、年の頃は十代半ばと言えそうだった。黄金色に煌く髪に粉雪のような純白の肌、輝く大きな紅色の瞳。普段見慣れぬ古風な出で立ちも相俟ってか、思わず見入ってしまう程の美しい少女だった。いや、実際に見入っていた。
「そう、それじゃ! 妾はお主のそんな反応が見たかったのじゃ!!」
 弾けるようなたまもの声に唖然としていた俺が我に返ると、彼女がはしゃぐようにこちらを指差していた。
 俺は瞬間的に現実へと引き戻され、カッと顔を熱くする。思わず見惚れてしまった挙句、それを当人に指摘される。気恥ずかしさで気狂いしそうだった。きっと今の俺の顔は熟したトマトの様に赤く染まっているに違いない。たまもが目を見開いて凝視した後、高笑いを始めたのが何よりの証拠だ。
「もう、気が済みましたよね? 帰ってもいいですか?」
 俺は気恥ずかしさから、そう言ってその場を立ち去ろうとした。
 すると、たまもがそれを膨れっ面で制止する。
「態々こんな格好までさせておいて、それは無いじゃろ! お主は礼儀というものを知らぬのか!?」
 別に俺が頼み込んだ訳でも無く、どちらかと言うとたまもの方が勝手に少女姿(そんな格好)になった様なものである。とんだ言いがかりではなかろうか。
 とは言え、俺が立ち去ろうとした原因は自身の羞恥心に起因する一時の気の迷いというやつで、決して本心ではない。俺とて一応は男である。如何に相手の正体が巨大狐であろうとも、可憐な少女姿で袖を引かれて嫌な訳がない。まあ所謂ひとつの『男の性』というやつで、言葉や動作(アクション)とは裏腹に、俺が歩み出そうとした足を止めるのに然程抵抗は無かったというわけだ。
 故に俺は至ってポジティブな理由でその場に留まろうとしたわけである。少なくとも実際に足を止めるその寸前まではそうだった。
 しかし浮かれ気分はそこまでだった。なにせ実際に足を止めたのは至ってネガティブな理由だったからだ。
 不意に俺の左腕が言い知れぬ痛みに襲われたのだ。厳密にはそれが痛みなのか苦渋なのか解らない、とにかく今まで感じた事の無い圧迫感のある痛みのようなものだった。思わず左腕を庇うように右手で押さえ込む。幸いその痛み自体は数秒で治まり、それ以上どうなる訳でも無かった。だが、覆っていた右手を退け、改めて左腕を見た俺は痛み以上に戦慄を覚え驚愕する。
 俺の左腕には文字とも紋様とも取れそうな異様な形をした黒い痣のようなものが不気味に浮かび上がっていたのだ。
 滲みながらもくっきりと浮かび上がっているそれは不自然な規則性を持っており、見るからに自然にできた打撲類の痣とは思えない。
 瞬間的に先の学校での出来事が脳裏を過る。あの一つ目の黒い妖怪に襲われた視聴覚室での出来事だ。あの時、俺はあの一つ目妖怪に左腕を掴まれていた。先刻まで気付かなかったこの痣のようなものとその事実、両者を結び付けるのはそう難しい事ではない。何せ襲われたのはほんの数十分前、例えたまもの登場で記憶を脳裏の片隅へと追いやっていたとしても、それは未だ鮮明さを保った悍ましい体験である。寧ろ両者を結び付けるなと言う方が無理な話だった。
 同時に込み上げてくるのは不安。あんな非友好的妖怪が施したものだとすれば、この痣擬きも友好とはかけ離れた代物であるに違いない。直感でそう思ったのだ。
「どうしたのじゃ? 怪我でもしておるのか?」
 俺の仕草が不自然だったからか、はたまた不安を読み取ったのか、たまもが心配そうに声を掛けてきた。
「何でもありません」
 俺は咄嗟に痣擬きを制服の袖で隠すと、そのまま背後へ左手を移す。
 迷惑はかけられない。幼い時より妖怪事でのトラブルに見舞われる事が多かった俺。その都度、周りに悟られまいと振る舞ってきたが故の無意識による反射的対応だった。
 尤も条件反射とは言え、俺は自身の取ったこの行動に後悔など微塵も無かった。今回は正真正銘性質の悪い妖怪絡みの案件。下手に係わると本当にとばっちりを負いかねない厄介事である。しかも、状況的にとばっちりが惨事と成る可能性も大いに想定できる事案。それを知りながら無関係な誰か、例えそれが人間でなく妖怪だろうとも、巻き込むなんて事はしたくないからだ。
 とは言え、明らかな不調を示した後での振る舞いである。好奇心も然ることながら心配を懐かせてしまったであろうと大いに想像がつく。俺の心根など知る由も無いたまもが放っておかなかったとしても、それは致し方のないことだった。
「嘘を言うな、見せてみい」
 たまもはそう言うや否や、素早く俺の背後に手を伸ばし左腕を掴むと自身の胸元まで引き寄せた。
 不意を突かれたというのもあったが、そのか細い腕からは想像も出来ないような力強さだった為、抵抗する間も無く左腕を曝してしまった。元が巨大狐のたまもが相手なので、その辺の馬鹿力に関しては驚きもしなかったが、あっさりと信念を曲げてしまった結果に関しては、少しだけ自分が情けなく思えた。
「ありゃりゃ。こりゃ、呪いじゃな。何があった?」
 半ば強引に袖を捲し上げ、俺の左腕を一目したたまもはそう言った。
 それなりに予想出来ていた事なので呪いという言葉に俺は然程驚きを覚えなかった。それよりも、このような妖怪関係の案件に説明不要で理解してもらえた事に俺は不謹慎だが高揚してしまう。たまもも妖怪なのだから当然と言えば当然だが、それでも当たり前のように俺の不可思議体験を受け入れてもらった事など殆どないので、相手が何者であれ嬉しかったのだ。
 未だ巻き込みたくないとの思いはあるものの、今更隠し通せる状況でもない。先に述べた気の高揚もあってか、俺はたまもに学校で遭遇した一つ目妖怪の事を話す事にした。
 俺が事情説明を終えると、たまもは改めて俺の左腕を凝視した後、何やら険しい表情でブツブツと独り言を始める。
「望み薄……」「危険(リスク)が……」「打つ手なし……」「教えるべきか……」「死ぬ……」「知る権利はある……」「黙っておく事も優しさ……」
 小声であった為、俺には限られた言葉しか聞き取れなかったが、どれも不安を駆り立てるものばかり。特に「死」と言う言葉(ワード)が一際深く俺の胸に突き刺さる。
「……あの……俺……死ぬんですか?」
 不安に耐えかねた俺はたまもにそう訊ねる。中途半端に漏洩(リーク)された情報の下で疑念を懐きながら悩むより、真相を知った上で悩んだ方が幾分事情を受け入れられるというものだ。
 俺に訊ねられたたまもは、ハッと口を両手で押さえ絵に描いたような失態者の顔を見せる。それは俺が真実を悟るには充分過ぎる程に解りやすいリアクションであった。
 落ち込む……と言うより絶望に近かい感情が俺の胸を重く包み込んできた。
 消沈する俺を見て、初めこそ取り繕おうとしたたまも。だが、今更そんなものが気休めにもならない事は当事者の俺でなくても明白だと悟ったのだろう。開き直るかのようにこう言った。
「この呪いをこのまま放っておけば、そうじゃな……あと三日、三日程でお主は死ぬ事になるじゃろう」
 まさかの余命宣告である。しかも残り三日。流石に幾ら相応の覚悟を持って訊いたとは言え、前途有望な高校男子が受け入れるには些かヘビー過ぎる内容だ。
 先程までの傷心の比ではない。見る見るうちに俺の視点は辺り構わず無意味に放浪し始める。そしてそれを認識しながら止められない精神と肉体の別離状態。絶望の淵を彷徨うとは、たぶん今の俺みたいな事を言うのであろう。
「こりゃ、こりゃ、そこまで気を落とさんでも良いじゃろ。妾はこのまま放っておいたらと言った筈じゃぞ」
 早くも己の人生を振り返り始めていた俺だが、たまものこんな声に、如何にか正気を取り戻す。そして思い出した。目の前にいる細身で可憐な少女たまもが白面金毛九尾である事を。
 白面金毛九尾と言えば、千年単位で生きる大妖狐。長寿故に知識も豊富そうだし、日本でも指折りの大妖怪なのだから神通力的不可思議能力も半端無いはず。あんな如何にも三下っぽい一つ目妖怪が施した呪いなど、ちょちょいのちょいと片手間で消せたとしてもおかしくはない。
 人間、一度どん底まで絶望すると、希望に対する尺度が著しく歪むらしい。先程の独り言で散々な言葉(ワード)の数々を並べられていた事など忘れ、光明を見出したかのように俺はたまもに……いや、たまも様に縋ろうとするのだった―――――――

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三尾

きつねのかがりび(仮)

 ―――あれから小一時間が過ぎていた。唐突にあと三日の余命宣告を受けてから小一時間だ。未だその原因たる我が左腕の呪いの文様は健在。然るにそれは残り僅かとなった我が余命の消費量と同義とも言えるだろう。
 そうした状況の中、俺は……俺達は駅前広場の端にある小さな喫茶店にいた。
 ここで言う俺達とは、当然ながら俺とたまもの二人を指している。それは他に利用客が居ない貸し切り状態の店内を見渡しても明らかで否定しようのない事実だ。
 神社にて語らっていたはずの俺達が、なぜ故このような場所に居を移したのかというと、それは他でもない、たまもがそれを望んだからである。
 俺が絶望に打ちひしがれた後、僅かな希望の下たまもに助けを求めたところ、彼女は突然「腹が減った」と言い出したのだ。
 一秒でも惜しいこの一大事に何事かと訊ねると、たまもは屈託のない笑みを浮かべてこう言った。
「誰かに何かを求める時、お主は手ぶらで頼むのか? まして妾は妖(あやかし)じゃ。妖相手の取引を、まさか無償で済ませられると思ってはいまいな?」
 要約すると、助けてやるから飯を奢れ、って事だ。
 追い詰められた人間を前に何を言い出すのか、と思わなかったと言えば嘘になる。しかしながら妖怪相手に無償の協力を得られるとも思っていないので、そこはやぶさかではなかった。それにその時の俺は絶望による動揺もあってか、たまもが希望を授ける女神に見えており、寧ろちょっとばかし食事を謙譲するだけで救われるのなら安いものだ、くらいにはポジティブに捉えていた。
 そんなわけで俺はたまもの要求を受諾、場所を移動したというわけだ。
 この喫茶店を選んだのには特に意味はない。たまたま目に止まった店を俺が提案し、たまもがそれを受け入れた結果だ。まあ敢えて気にかけた事と言えば、そのまま妖怪談義に突入する可能性が高いため、なるべくひと目(特に身近な学校関係者)につかないよう、メジャーどころは避けるといった事くらいか。それでもシックなインテリアで統一されクラシック音楽が静かに流れる店内は、なかなかどうして悪くない。そのうえ各種値段の方も学生目線で良心的な設定だった。切羽詰まった身の上でなければ「隠れた穴場、見つけたり」とほくそ笑むくらいには良店だったと言えよう。
 ようするに何が言いたいかというと、場所を移した事も、この場(喫茶店)を選んだ事も、そしてこの店自体にも不満などは無かったわけである。
 しかしながら俺は今、些か不機嫌に注文したダージリン紅茶を啜っていた。因みに俺は珈琲と紅茶であれば紅茶派だ。そしてこの店の紅茶は香りが立っていて実に味わい深かった。店ならびに紅茶に罪はない。
 では俺は何に腹を立てていたのか。それは言うまでもなく、たまもにであった。
 それは遡ること、俺達ふたりがこの喫茶店の出入り口ドアを潜って間もない時から始まっていた。
 狐というものは遠慮という言葉をしらないのか、はたまた白面金毛九尾というものがそうなのか。このたまもときたら、学生アルバイト風のウェイトレスから窓際のテーブル席に案内されるや否や、そのメニューを物色し次々と注文。あっという間にテーブルの上を各種料理で埋め尽くさせてしまったのである。それこそ一分の迷いもないといった感じで。
 一介の高校生でしかない俺がこの支払を賄うと考えたら、これは由々しき事態である。この時点で既に俺の胸中では火種が燻り始めていた。とは言え、それでもこれは自分の命が掛かった重大問題である。命の重みと財布の重さ、どちらが大事かと言えば、やはり命である。時にそれが問題解決に必要な経費であるならば、財布の紐を緩めるのも必要不可欠な生きる術である。つまりは、これはきっかけに過ぎず真に問題があったのは、このあとの事であったのだ。
 品物の数々を運んできたウェイトレスが少し疲れた様子で軽くお辞儀をしてはけて行くのをよそに、たまもはもしゃもしゃと食事を開始した。彼女の食べっぷりは、それはもう見事なものであり、育ち盛りの屈強な体育会系男子でも完食は難しいと思われる量の料理の数々を見る見るうちに平らげていく。完食まで、まさにあっという間の出来事であった。満足そうに腹を擦りながら「ふぃ~」と息を洩らすその姿にはある種の貫禄さえ備わって見えたくらいだ。
 そして問題が起こった。正確には問題発言があったと言うべきか。
「あ、そうそう。その呪いじゃが、妾にはどうにも出来ん」
 不意にたまもがそう言いやがったのだ。それは唇をナポリタンのトマトソースでテカらせながら、事のついでのような言いっぷりだった。
 俺は事態を呑み込めず、呑み込みたくなく、暫く沈黙。ようやく口をついて出たのが「いま何と?」であった。
「いや、じゃから。お主の呪いは、妾にはどうにも出来ぬのよ。あっはっはっ」
 返って来たのは呑気に高笑いまで見せるたまもの姿。実に不届き千万である。流石に眉根を寄せて荒ぶらずにはいられなかった。
 かくして俺は一旦気持ちを落ち着かせるため、ティーカップに手を伸ばしていたわけだ。

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四尾

きつねのかがりび(仮)

 アンガーマネジメントなる分野に於いて曰く、人の怒りのピークというのは六秒程しか持続しないというのが通説らしい。なんでも、その六秒さえ乗り切れば理性を持って怒りを押さえ込む事が出来るとか。口周りのトマトソースを紙ナプキンで乱雑に拭き取るたまもを尻目にダージリン紅茶を口に含み其の味わいを噛み締めると、六秒という時間は思いの外容易にやり過ごす事が出来た。それが功を奏したのか否かは凡庸の学生たる俺には計り知れないところであるのだが、少なくとも感情に流され我を失わずに済んだのは確かであった。
 それでも腹の底に燃え広がった怒りが完全に鎮火したわけではない。話が違うと抗議する俺の言葉の節々には鋭利な刃物のような角が立っていた。
「まあ、落ち着け。話はまだ終わっておらぬ」
 たまもは穏やかな笑みを浮かべて窘めるようにそう言った。それは本来ならば整った顔立ちと相まって俺を鎮静するのに絶大な癒し効果を発揮したのかもしれない。しかしながら如何せん先にも述べた通り、口の周りをナポリタンのトマトソースでぎっとりとテカらせており、その上膨れた腹を労りたいのか、大股開きで椅子の背もたれに体を預けながらの事であった為、癒やしではなく逆撫でにしかなっていなかったというのが実情である。当然ながら説得力にも欠けるその言葉に、俺の血圧は再び急上昇を余儀なくされていた。
 それでも人には何事に対しても耐性と言うものが備わっているらしく、どうにか話の席に着く程度には気持ちを抑えられた俺。そのまま経緯を見守る事にすると、たまもは備え付けの紙ナプキンをさっと手に取り口の周りを乱暴に拭き回してから言った。
「そもそも『呪い』というのは、《かける》よりも《解く》方が難しいのじゃよ。如何に白面金毛九尾たる妾と言えど、そう安々と他者の施した呪いを解く事など出来ぬのじゃ」
「……そういうもんですか」
 俺は不満げにそう返した。呪いに関する知識のない俺である。そう言われてしまっては受け入れる他ないわけだが、だからと言って報酬を支払った後に無理だと言われたことに対する納得とは成り得ないのだ。
 そんな俺のつれない態度を特に気にすることも無く、たまもは更に説明を続けた。
「呪いというのは術式と呼ばれる妖力だったり霊力を特定の作用を齎すように組み上げられたプログラムの一種じゃ。組み上げるのも当然ながら力量を求められるのじゃが、一度組み上げられた術式をなかった事にするのはさらなる力量を求められるのじゃ。妖力、霊力は使い方によっては奇跡に等しい事象を起こすことも可能な力。術式とはそんな力が複雑に干渉しあい保たれておる状態じゃから、下手に弄ってそのバランスを崩しでもしたら何が起こるか分からん。つまり解除する場合は適切に処置せねば危険というわけよ。故に術式解除(それ)は組み上げる事よりも難しくなるのじゃ」
「積み上げられた積み木を倒壊させずに解体するのは積み上げる時より難しい、みたいな感じですか?」
「まあ、そんなところかのぉ。加えていうなら今回は見ず知らずの輩が組んだ術式じゃ。解除となれば、製作者の癖や性格も分からんノーヒント状態でプログラム構成を読み解くところから始めなけりゃならんわけじゃから、一層難易度が高いと言える。その意味では立体パズルを倒壊させずに解体すると言った方が正しいかも知れぬな」
 なるほど、確かにそれは大変そうだ。難儀な事なのは解った。とは言え、納得はいかない。なぜならそれは事前に解っていたはずの事だからだ。初めから無理だと解っていたのなら、たまもは何故ゆえ見返りを要求したのか。しかも前払いのような形で。出来ないと解っていながら報酬だけ支払わせようとするのは詐欺にも等しい行為である。そんな事をされて納得など出来ようはずがないからな。
 そうした不服の思いもあってか、俺は少しばかり意地悪く、「さしもの白面金毛九尾もお手上げってわけですね」と落胆の声を上げた。
 するとたまもが唐突にドスの利いた声で「あ゛ん゛だって?」と俺を睨みつけてきた。
 突然の変貌と背筋が凍るような迫力に俺は思わず身をそらしてしまう。
「勘違いするな! 確かにどうにも出来んとは言ったが、それはお主の余命が三日程という時間制限があるからじゃ! 別に解けぬとは言っとらんわ!」
 テーブル越しに身を乗り出したたまもが俺の鼻先に細い人差し指を向けながら、今にも突付かんとばかりに迫ってくる。流石は白面金毛九尾と言うべきか、可憐な少女姿とは思えぬ程その威圧は凄まじく、俺は即座に両手の平を向けて降伏のポーズをとるしかなかった。
 更にたまもはまくし立てる。
「よいか!? 妾程の妖になれば、その程度の呪いなんぞ5日も有れば余裕で解析から解除まで終わらせられるんじゃからな!! 解ったか!!!」
 どうやら、俺の軽はずみな言動が大妖怪としてのプライドに傷をつけてしまった様子である。俺は困惑と後悔の味を噛み締めながら力無く「はい」と答えた。
 ともあれ、そういった時間制限を設ける事で解除無効化を避けようとしている、と考えるならば、それは最早解けないと同義ではなかろうか。たまもの主張には些か疑問が湧く。
「阿呆! お主の余命が短いのは、呪いの所為と言うよりはお主自身の霊力(力)の強大さ故じゃ。だから、断じて妾がその呪いに対し遅れを取っているというわけではないのじゃ」
 俺はまたもや言動を誤ってしまったらしい。たまもから発せられる言い知れぬ重苦しい空気に気圧されそうになる。
 そんな折、躍起になるたまもの言葉でふと気になる箇所があったので、俺はそれを恐る恐る訊き返した。
「俺の霊力(力)の強大さ故?」
 だいぶ気が立っていたようで、たまもはすぐには答えなかった。だが、流石は見た目少女でも年長で大人な白面金毛九尾というべきだろうか、ガブリとグラスの水を飲み干すと何事も無かったかのように元の口調で語り出した。
「お主のその呪いじゃが、実は少々変わっていてな。その動力源にお主自身の霊力(力)を使っているようなのじゃ」
「それが俺の余命にどう関係しているんです?」
 話の見えない俺が更に訊ねると、
「本来、霊力というのは呪いなどの怪奇障害に対して、抵抗力として働くものなのじゃ。無論完璧に防げるものでは無いが、それでも霊力が高ければ高い程、そうした障害に対する耐性が強い事に代わりはない。つまり本来ならばお主のように霊力の高い者は時間的猶予がもっとあって然るべきなのじゃ。じゃが、その呪いは本来抵抗力となる筈のお主の霊力を逆に利用して効力を増しておる。故に霊力が強ければ強い程供給されるエネルギーが多くなってしまう為、本来とは逆の効果を発揮してしまっておるのじゃよ。おまけに本来抵抗力に割り当てられるはずの霊力が呪いに吸われる分少なくなるわけじゃから、更にその効果は著明。故に呪いの強力化と抵抗力の低下というダブル効果でお主の余命は極端に短くなっとるというわけじゃよ」
 なるほど、俺は小さく頷いた。要するに霊力が強い者ぼど呪いが強力になり、死ぬのもまた早くなると言うわけか。まさに一石二鳥って感じだ。なんて洗礼された恐ろしい呪いなのだろう。あの一つ目妖怪の野郎はあんな知能低そうな形をしていた割に、呪いに相当精通した頭の切れる奴だったというわけだ。
「いや、そうとも限らんのじゃ……」
 得心する俺にたまもは渋い顔で異議を唱えると、どっかりと椅子の背に凭れかかった。
「実はこの呪い、複雑な術式プログラムを組み込み高度化している割に殺傷能力自体は然程でもないのじゃ。それにこれだけ複雑な構造の呪いとなると初期起動はもちろん発動を維持するだけでも相当量のエネルギーが必要になる。相手の霊力にそれら全てを依存するというのは余りにも無謀なんじゃよ。何せ皆が皆、強力な霊力を持っているとは限らん。はっきり言ってここまで複雑だと、少し霊感が強い程度では発動に漕ぎ着けんし、発動したとしても相手が並みの霊媒師レベルでは殺害に至るまでの効果は得られんじゃろう。つまり手間のわりに高確率で不発に終わってしまうっちゅう代物じゃ。こんな欠陥品とも言える非効率的な術式をわざわざ呪術精通者が好き好んで使うとも思えんのじゃよ」
「なるほど」と俺はとりあえず相槌を打つ。
「まあ無論、特定の状況やターゲットを絞って狙ったのだとすればそれも有りなのじゃが……お主の話を聞く限りでは、どう考えても突発的な遭遇にしか思えんし……ならば殊更こんな使い勝手の悪い呪いなど使わんじゃろうて。じゃがな……」
 たまもは指し手に困った棋士のように腕組みをして、怪訝そうに顔を曇らせていた。
「一つ目妖怪(アイツ)が単に馬鹿で間抜けな妖怪だっただけじゃないですか?」
 俺が問うと、たまもはじっとりとした視線をこちらへ向け、テストで難問に遭遇した学生のような顔をする。
「それはそれで腑に落ちぬのよ。さっき言った通りその呪い、構造的にはかなり複雑で高度な部類の代物じゃ。そんなものを扱う輩がそんな馬鹿では余計辻褄が合わんと思わぬか?」
「なら、一つ目妖怪(アイツ)はやっぱり凄い妖怪で、俺の霊力の強さを見据えてこの呪いを選んだって事なんじゃ……」
 そんな消去法で結論じみた俺の意見もたまもは「それは無いと」断じるように否定する。
「お主の霊力値の高さを容易に見抜ける程の者ならば、先ずこの手の呪いは使わぬからじゃ」
 ありゃと思い、俺は小首を傾げた。
「意味が解りませんよ。霊力高い奴程ダメージデカくなる呪いでしょ。俺なら真っ先に選択(セレクト)しますよ」
「阿呆じゃなお主は……」
 たまもは呆れるようにそう漏らすと、
「よいか、霊力が高ければ高い程、その道(・・・)に精通していると考えるのが普通じゃろうが。であるならば、当然こんな相手の霊力次第なんて欠陥品では容易に打開されてしまうと考えるのが妥当なのじゃ」
 たまもの説明に少々納得のいかない俺。阿呆呼ばわりされて少しムッとしたのもあり、少し意地悪く言い返す。
「たまもさんにも解除不可能な呪いなんですよね? 容易に打開っておかしくありません?」
「やはりお主は阿呆じゃな!」
 たまもはギロリと俺を睨みながら、僅かに声を震わせそう言った。
 俺は自らふっかけておきながら、思わず身を反らして後悔する。
「妾が無理じゃと申したのは、第三者として、という意味じゃ! 仮に今回呪いを受けたのが妾自身であったのなら、その場で即刻打破しておるわ!!」
「……えっと、それはどうやって?」
 怒りに火が付いたたまものプレッシャーに圧倒されながら恐る恐る訊ねる俺に、彼女は立ち上がってテーブル越しに詰め寄り言う。
「簡単じゃ、呪いに流れ込む霊力、まあ妾は妖じゃから妖力じゃがな、それのみを一時的に遮断し、その上で強引に打ち破ってしまえばよい。如何に難攻不落な術式とて動力が枯渇したら唯の計算式、机上の空論に過ぎぬ。そんな呪い(もの)は爆薬のない爆弾が紙の鎖で括られているようなもの。どうにでも出来よう」
 たまもは更に俺の鼻先までその麗美な小顔で詰め寄って、
「で、お主にはそれが出来るのか? 局部的霊力の遮断! それが出来るなら、この問題は即刻解決、霊力の枯渇した呪いを妾が打ち破って終いじゃ。さあ、どうなのじゃ!?」
 眼前に迫る高圧的なたまもに俺が冷や汗混じりに「……すみませんでした」と謝ったのは言うまでもなかった。俺にはそうする為の知識も技術も備わってはいないし、その上意地悪い事を言ってしまった後悔があったわけだから致し方ない。何より単純に恐かった。
 俺の謝罪を聞いたたまもは、ふんっと鼻息を漏らすと、
「じゃろうな。それが出来るのならば、そもそも妾に縋りつく必要も無いのだからな。ってか何でそんな無知なのに、お主は費用対効果の頗る悪いカウンター型の呪いで生命の危機に陥るほど強大な霊力を持っておるんじゃ、まったく……」
 そう態とらしく愚痴を溢しながら俺の眼前より離れると再び椅子に腰かけた。
「まあ、そんな訳だから如何に偉大な妾の力をもってしても、その呪いを即刻安全に解くのは難しいというわけじゃ。因みに訊かれる前に答えておくが、現状でもその呪い、妾なら無理矢理打ち破る事は可能じゃ。もっともその場合、術式崩壊で生じる影響でお主がどうなるかは知らぬがな」
「術式崩壊の影響……ですか……」
「うむ、先程も申した通り、呪いは繊細な力の均衡で成り立っているからの。強引に剥がすなんて無茶をしたら間違いなく均衡は崩れ力が暴走する。お主の膨大な霊力を吸ったお主を三日で死に至らしめる程の力の暴走じゃ、ただでは済むまい。じゃからそうならんように霊力の局部減少をして、例え力の暴走が起こっても問題にならんようにする必要がある訳じゃしな」
 如何に阿呆と罵倒された俺であっても、流石にここまで言われれば現状打つ手無しだと理解出来る。だが、ほんの少し怖いもの見たさというか、一種の好奇心から一応たまもに訊いてみた。
「……仮に今……霊力の減少無し(この状態)で剥がしたら……どうなりますかね?……個人的見解でいいので教えてくれませんか?……」
 すると、たまもは人差し指を顎に当てながら二秒程考え、
「一概には言えんが―――少なくとも左腕は諦めなきゃならんだろうな、っていうか左腕だけで済めばもうけもの。妾の見立てでは七割方死ぬのではないかと思うのじゃが―――試してみるか?」
 平然と言うたまもに俺は全力で首を横に振って拒絶した。
 そして肩を落として思う。夢も希望もあったものでは無い、と。
 俺は自分で訊いておきながら、その結論に心底落胆していた。長々と話し合った結果、〝呪われて三日後に死ぬ〟に加え、〝呪いを無理に剥がして、術式崩壊による力の暴走で今死ぬ〟という不毛な選択肢が増えただけ。結局〝死ぬ〟という最初の結論から逃れる事が出来なかったのである。それは当然の帰結であった。
 俺はいよいよ己の死というものが現実味を帯びてきた事に言い知れぬ不安を覚えた。最初に宣告された時のような、ただ焦り困惑するのではない。一歩引いた位置から客観的に捉えているもう一人の自分が居て、動揺している筈なのに何処かで冷静なところがある、そんな妙な不安だった。
 たまもは兎も角として、俺が消沈した事で重苦しい空気がこの場に流れ会話がピタリと止まった。
 何も知らないこの店のウェイトレスはこの機を待っていたとばかりにやって来て、空き皿を片付けてもよいかと訊ねてきた。俺は小さく頷くので精一杯であったが、それでも充分通じたらしく、彼女は手際よく空き皿達を片付け始めた。
 見る見るうちに片付いていくテーブルを見ながら、身辺整理でも始めようかと思い始める俺。仕事を終えたウェイトレスが一礼して去っていく頃には、本気で遺書の書き方なんかを模索し始めていた。
「まだ万策尽きた訳ではない。落ち込むのは早いぞ」
 ウェイトレスが去り、再び二人きりになると俺の心情を察するようにたまもが声を掛けてきた。
 希望はまだ残されていると言われたわけだが、如何せん期待を持ち過ぎたが為、過度な失望を得てしまった直後である。もはや喜びを爆発させることなどはなかった。
「……その策って何ですか?」
 俺が弱々しくそう訊ねると、
「呪いをかけた妖を捕まえるのじゃ!」
 たまもは俺の消沈した姿を見て、景気付けにとでも思ったのかもしれない。力強くそう言った。
「……捕まえる?」
「そうじゃ、捕まえるのじゃ。呪いを掛けた本人ならば解除方法を知っておるはずじゃからな。取っ捕まえて解かせればよいのじゃよ」
 これは一つの光明というやつであるとは思う……しかし、
「でもどうやって?」
 そんな疑問が口をついて出たのは、俺がただ霊力があるだけの普通の人間だからであった。
「んなもん、ちょろいじゃろ」
 たまもは平然と行ってのける。
「そりゃあ、天下の白面金毛九尾様ならばそうなのかもしれませんけど……」
 何度も言うが俺はただ霊感が有るだけの男である。妖怪を捕まえる為のスキルなど持ち合わせていないのだ。そればかりか妖怪から身を守る術すらない俺は、初見で問答無用で呪ってくるような好戦的な奴に下手に近づいたりしたら返り討ちに遭うのが必至である。然るに呪いを解除して生存するどころか死を早める危険(リスク)の方が遥かに高いわけで、簡単に「はい、そうですね」とはいかないのだ。
 そんな尻込みする俺に小首を傾げてたまもが言った。
「ほへ? そこは何も心配はいらんじゃろ」
「なぬ?」
 俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。たまもの言葉の意味を全く以て理解出来なかったからだ。先にも述べた通り、妖怪確保の実現性が希薄なのは明白で、心配が無用になる論理(ロジック)など皆目検討もつかないのだからな。
 困惑している俺にたまもは尚も不思議そうな顔を浮かべ、
「いや、妾がおるではないか」
「!?」
 その瞬間、今度は奇異な言葉すら出なかった。
 数秒の後、俺は何とか言葉をひねり出す。
「協力してくれるんですか?」
「当然じゃろ」
 たまもは宝石みたいに光を乱反射させる綺麗な紅色の瞳で俺を見据えながら即答する。
 大妖怪白面金毛九尾が何処にでも居そうで三流っぽい一つ目妖怪の確保に協力してくれる。普通に考えれば願ってもない話である。それはもう歓喜に打ち震えて然るべきである。しかしながら、なまじ妖怪との付き合いに心得が有るばかりに、俺は大いに逡巡してしまうのだった。
「うおい! 何じゃ、その態度は! 妾の助力が不満なのか?」
 たまもは二つ返事で同意を得られるとでも思っていたのだろうか、不機嫌そうに片眉を吊り上げる。
「いや、そんなつもりは……」
「では何故じゃ? この白面金毛九尾たる妾が直々に手を貸そうと言うのじゃぞ。本来ならば泣いて懇願しても叶わぬような有難~い申し出じゃ。迷う要素など皆無じゃろ。何故お主は躊躇うのじゃ? アレか、阿呆なのか? お主は阿呆なのか?」
 大事な事なので二回言いました的なノリで阿呆を連呼せずとも、事の希少性は理解しているつもりである。だが幾ら希少だろうと、有り難かろうと、安易に頼めない事情が俺に有るとするならば、二の足だって踏むというものだ。
「むう? 妾の好意に二の足を踏む事情じゃと? 言うてみぃ。但しその事情とやらがくだらん事じゃったら承知せぬからな」
 語尾に僅かな威圧を伴ったたまもの問いに気圧されつつ控えめに答える。
「……実のところ見返りを支払えそうにないんですよ」
 妖怪相手に取引の類は無償で出来ない。たまもが言った事である。たまもの力を借りるには相応の対価を払う必要があり、実際に俺は呪いに関する情報を得るために、こうして今居る喫茶店で彼女に食事を提供するに至ったわけだ。であるならば、当然ここで一つ目妖怪捜索のためにたまもの協力を仰ぐには別途見返りを支払う必要があるという事。そして、それが問題なのだ。なぜならこの際のたまもへの謝礼が、俺の支払い能力を有に上回るであろうからだ。なにせ既に呪いに関する情報提供の見返りだけで俺の財布の中身が消し飛びそうである。(無論まだ支払いを済ませたわけではないので明確な出費額は確定してはいないのだが、たまもがしこたま食い漁った品の数々を見た限り、目算でもその合計金額が俺の財布に壊滅的大打撃を負わすのは明白である。)ただ単に一つ目妖怪の呪いに関する見解を伺うだけでこうなのだから、実行動を伴う直接的な協力要請の見返りは果たして如何程のものか。考えただけで身の毛がよだつ。俺が躊躇いを懐くのは至極当然と言うものだ。
 とは言え、こうした俺の切実な心配事が、不機嫌を匂わせている御狐様が言うところの『くだらない事』に該当しないとは言いきれない。今までの経緯を見る限り、この御狐様ときたら度々理不尽に我を通そうとするところがあるからな。
 てなわけで、更なる不満をぶつけられないかと不安を懐きながら固唾を呑んで様子を注視していると、
「くっくふっ、かっかっかっ!」
 突然たまもは腹を抱えながら高笑いを始めた。予想外の出来事に俺は唖然とする。
「なんじゃ、そんな事か」
  笑い過ぎで目尻に涙まで滲ませたたまもが息を切らしながらそう言った。
 そんな事とはぞんざいな。大妖怪に借りを作る事の意味を理解しての結論である。それに、そもそも「妖怪の力をタダで借りられると思うなよ」的忠告をしてきたのは他ならぬたまもの方なのだからな。
「ありゃ、そうだったかの?」
 たまもは大袈裟に首を傾げてすっ惚ける。
 おい、今我々が喫茶店(ここ)にいる意味を全否定するつもりか? いやまあ、俺としてはこの馬鹿みたいに長くなった注文伝票の支払いをせずに済むのなら、一向にそれでも構わないわけだがな。
「ふあっ!? そうじゃった! そうじゃった! ちゃっ、ちゃんと覚えておるよ、うむ」
 両手をバタバタさせて自身の発言を訂正するたまも。現金な奴である。もしかしてタダ飯にありつきたかっただけじゃなかろうか、この雌狐は。
 俺が呆れていると、街頭演説で力説する政治家のように拳を突き上げたたまもが無駄に力強い口調で、
「要するにじゃ! それはそれ、これはこれ、今回は見返りなんぞ要らぬっつうわけじゃよ。白面金毛九尾たる妾はちゃんと節度というものを弁えているからのう。お主のような小僧相手に不相応で莫大な見返りを求めよう等と低俗な真似はせぬ。それにじゃ、こんな面白そ……卑劣な行いをする妖は妖全体の評判に関わる故、放ってはおけぬしな。此方の都合もある故、サービスじゃよ、サービス」
 おい今、失言がなかったか? 面白そうって言いかけなかったか? それっぽい理由を列挙しているが、結局は娯楽か? 娯楽として関わろうとしているのか?
「と、とにかく無料じゃ! 無料! 今ならこの妾の助力が無料で得られるのじゃ! うん、お得! ラッキー! こりゃあ、肖るしかないね、そう思うじゃろ、主よ?」
 俺の疑念をかき消すように、たまもは早口でそうまくし立てる。その行動はより一層疑念をいだかせるものだった―――が、
「まあ……そうッスねぇ……」
 俺は逡巡しながらも同意するのだった。正直、旨すぎる話と事の経緯から懐疑心を駆り立てられる思いだったのは否めない。しかしながら俺には現状でたまも以外に頼れる人も物も無い。その上、制限時間付きで自分の命が懸かっているときては、四の五の言って選り好みしている余裕も猶予も無いというものだ。
 そんな俺の葛藤を他所に、たまもは晴れやかにガッツポーズをみせながら、
「よーし、決まりじゃな!」と喜々として喜んでいた。
 まったく、調子が狂う。俺にとっては生死に関わる重要事項なのに、清々しい程に緊張感の欠片もないような態度を見せられているのだからな。そもそも本来であれば、立場的にこの状況を喜ぶべきは俺の方の筈である。その俺を差し置いて、なんでたまもの方が歓喜の声を上げているのやら。
 だが、まあいいさ。ともあれ白面金毛九尾の狐と言う超が突く程の強力な助っ人を得た事には変わりない。それは少なくとも俺に呪いをかけやがった憎き一つ目妖怪を捕まえるという点においてはプラス要因に他ならないからな。生命の危機回避という最優先事項を果たす為には、俺の感情における蟠りなんてものは瑣末な問題でしかないのだ。
 つーわけで、俺はご機嫌なたまもに対し野暮な愚痴をこぼす代わりに言ったのだった。
「よろしくお願いします」と。
 かくして経緯はどうあれ俺は自身に呪いをかけた一つ目妖怪を捕まえるため、白面金毛九尾たまもの協力を得る事になったのであった―――――

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五尾

きつねのかがりび(仮)

 俺は「では早速これから学校に向かいましょう」と言って立ち上がった。俺に呪いを掛けた憎っくき一つ目妖怪を捕まえるため、白面金毛九尾たまもの助力を確約させてから程なくしての事だ。
 俺の命はあと三日、あまりにも残された時間が少ない。やる事が決まり、その実行に目処がたったのならば行動あるのみである。こんな呪い(もの)は早急に取り除くのが賢明だ。幸いにして今から学校に向かえば、どうにか最終下校時刻前には辿り着けそうである。学校への出入りが自由なうちに事に取り掛かれるというものだ。(まあ例え間に合わず閉鎖されていたとて、校門をよじ登ってでも侵入するまでだが。)要するに差し当たり弊害は無いのである。俺の未来が掛かっているのに、やらない理由が何処にあろうか。
 しかしながら、そんな逸る気持ちの俺をたまもが穏やかな口調で制止する。
「まあ待て、落ち着くのじゃ」
 たまもは俺とは対照的に椅子にゆったりと座ったままだった。
 出鼻をくじかれる格好となり俺は些か困惑した。
「俺、何かおかしな事言ってますか? 目的は一つ目妖怪を捕まえる事で残された時間は僅か。この状況で現場に向かうのは至極真っ当に思えますが」
 訊ねる俺にたまもは「これだからトーシロは」と呆れた様子で古臭い死語を混じえて答えた。
「だったら、そのトーシロにも解るように説明してくださいよ」
 素人たる俺はそう返した。
「えーとじゃな……」
 たまもはキョロキョロと辺りを見回すと、店の壁にかけられた古めかしくも洒落た感じの振り子時計を見つけて指をさす。
「時刻を見よ、間もなく日暮れじゃ」
 振り子時計の針は確かにそんな時刻を指していた―――が、それがとうしたというのだ? 既に俺は、そんな事は承知している。その上で時間的節約のために早急な行動を進言したのである。
「うむ、時間が惜しいのは解るし、迅速な行動を望むのも解るよ。じゃがな、今大事なのは確実性なのじゃよ」
「確実性?」
 たまもは「そうじゃ」と頷く。「お主は時間が限れれている事から一つ目を捕まえるチャンスが少ないと思っておるようじゃが、それは間違いなのじゃよ。今回の場合、厳密には少ないのではなく、ほぼ一度しかないとみるべきなのじゃ」
「え、ワンチャンスって……それは一体どういう事で?」
「二度目はないからじゃよ。一度捉えようとして万が一取り逃がした場合、その一つ目の妖は当然の如く警戒心を強めるじゃろうて。そうなれば、奴は妾たちから距離を取って接近を許さなくなる。残り時間の少なさを考慮すると、そんな奴相手に再び遭遇するのは極めて困難と言える」
「だから、最初のチャンスで失敗は許されない、チャンスは一度きりと」
「うむ。じゃから最初のチャンスでしくじらぬように最大限注意せねばならぬのじゃ」
 俺は腕を組んで暫し考え込む。いまいち理解が及ばなかったのだ。
「言いたいことは解るんですが……それと今から行動に移すのを待つ事がどう繋がるんですか? 確実性と関係ないように思えるのですが。それに一つ目妖怪がいつまでも学校に留まっていてくれるとは限らないでしょ。だとしたら追跡が遅れると、そもそもファーストチャンスまで漕ぎ着けなくなる恐れが高まりませんかね」
 今度はたまもの方が腕組みをしながら眉間を寄せ目を閉じた。
「お主はアレじゃな……基本阿呆じゃが時たま鋭いよの……」
 褒められているんだか貶されているんだか分からない物言いであった。なんとも反応に苦慮してしまう。
 そんな俺を余所に、たまもは再びその煌めく紅色の瞳を覗かせて言った。
「まず一つ目がお主が襲われた場所の付近に留まっておらず何処かへ行ってしまっている可能性についてじゃが……それは考えるだけ無駄じゃ」
 何を言っているのか解らなかった。チャンスは一度とまで公言する程の難題の、その一度目が無くなりかねない問題である。無駄と言えるほど、瑣末でもなかろうに。
「さすがに無駄って事はないんじゃ……」
 するとたまもは改まった顔でテーブルのグラスに目を落とした。
「無駄なんじゃよ。その場合、お主はすべてを諦めねばならんからの……さすがに今から残り三日で何処へともなく遠くに消えた妖を見つけ出すのは、妾をもってしても時が足りぬというものじゃ。んな最悪な事態は考えるだけ無駄じゃろ?」
 俺は愕然としてたまもの顔を見つめた。
「そういう事は先に言ってくださいよ。だったら尚の事、急いで学校に戻らないと!」
「いや、じゃから今更遅いと言っておるじゃろ。それにそう心配せずとも平気じゃよ。お主のような極上の獲物を狩れる場所をそう安々と捨てるとも思えぬ。十中八九その一つ目はお主が襲われた場所の近辺にいるじゃろうて」
「しかし、万が一という場合が……」
「じゃから大丈夫じゃて。そんな事よりも確実性の話じゃ」
 俺の万が一がしれっとそんな事扱いで済まされた。不本意極まりない事だ。だが、既にそんな事扱いとして処理したたまもがそれを気に留める道理はないのだろう。彼女は構わずに話を進める。
「妾、チャンスを潰さないためには不測の事態をなるたけ起こさないようにするのが重要だと思うのじゃよ」
 たまもは得意げに右手人差し指を突き立てていた。
「――で、間もなく日暮れなわけじゃ。つまりは直に夜が訪れるという事。夜は妖の時間じゃ。辺りが闇に包まれれば妖共は皆活発に動き出す。中にはたちの悪い奴もおるじゃろう。特に街中とは言え学校なんて怪異的にベタな場所にはな。そんな連中の邪魔が入るのは事じゃと思わんか? いや、思うとも」
 完全に万が一の可能性はなかった事にされているわけだが―――。
「うぅ……確かに」
 俺は苦虫を噛んだかのように悶ながらも納得するしかなかった。幼い頃から妖怪、怪異に悩まされてきた俺は、たまもの言い分を否が応でも理解できてしまうからだ。そして、それが今となっては先程の万が一の可能性より優先されるべきであろう事も。可能性の著しく低い事に固執して、そこそこ有る可能性を手放すのは愚の骨頂に他ならず、助かる為には避けねばならない事である。
「じゃろう!」とたまもが思わず魅入ってしまいそうになるような満面の笑みというやつを見せて声を上げた。「そういうわけじゃから、今日のところは逸る気持ちをグッと堪えてじゃな、明日、邪魔の入らぬ昼間に一つ目を捕まえようではないか、とそういう事じゃ」
 俺は少しだけ逡巡してから観念するように言った。
「わかりました、それでお願いします」

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六尾

きつねのかがりび(仮)

 翌朝。まるで我が心情を汲み取ったかのような薄雲の空の下、俺は学校への道程を歩んでいた。歩道の脇には新緑の混じり始めた桜の木立ちが規則正しく並んでいる。入学して二週間ちょっと、漸く見慣れ始めた景色だったが、今日は些か寂れて見えた。流石は絶賛余命減少中の身と言ったところか、物事を良質に捉える心のゆとりが不足しているらしい。もっとも本日は電車一本分早い登校で実際に通学ラッシュとは僅かながら時間的ズレが生じているので、メンタル面だけが原因というわけでもなかったりする。ともあれ、それもまた呪いのなせるワザであると言えなくもないので、やっぱり原因は呪いであると言えるのかもしれない。
 今朝は珍しく目覚ましが耳障りな電子音を奏でるよりも先に目が覚めた。普段、目覚まし時計のスヌーズ機能相手に激しい応酬を重ねているのが嘘のように思える程の寝覚めの良さだった。だが別段驚く事でも無いだろう。一晩経って残り二日とちょっと、このまま何もしなかった場合の俺の余命は余りにも短すぎる。刻一刻と消費される命を前に、一分一秒が惜しいと深層心理下で焦っていたとて不思議ではないのだから。
 それに―――。
 俺はブレザーとワイシャツの左袖の端を右手でまとめてつまみ上げると、隙間から中を覗いた。すると相も変わらずくっきりと描かれた不気味な黒い痣のような文様が目視できた。自己主張甚だしい呪いの印。実はこれ、明らかに昨日よりも俺の腕を覆う範囲が広がっているのだ。気付いたのは今朝。普段よりも早く目覚めた事もあり、余裕を持ってゆったりと寝間着から学生服に着替えている時だった。別に、前夜寝る前に散々見返した呪いの文様が何かの拍子に綺麗サッパリ消えているなんて都合の良い事を期待していたわけでもなかったが、それでも万が一という事があると思い、念の為その存在を確認しようと俺はワイシャツに袖を通す前、自身の左腕に目をやった。すると昨晩までは前腕の一部に刻まれているだけだったはずの呪いの文様範囲が、前腕全体のみならず上腕の半分を覆う程に広がっているのがひと目で見て取れたのだ。それは、如何にも体を蝕んでいますよと言わんばかりの変化だった。こんなあからさまに肉体を蝕まれていれば、深層心理と言わず実質的に何かしら何処かに機能不全を引き起こしていて、それ故いつもより早く目が覚めていたとしても何らおかしくはないというものだ。
 俺は溜息を洩らしながら摘んでいた袖から指を離すと、両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
 まあ何にせよ、悠長に構えてられるような心情でないのは明らかなので、俺はこうして普段より一足早く学校へ向かっている次第である。
 そうこうしているうちに、家並みの隙間から周囲より二回りは大きい無機質な鉄骨仕立ての建物が見えてきた。我が母校の校舎である。間もなく一つ目妖怪との因縁の地に辿り着くというわけだ。
 然るに俺は周囲に目を配り始めた。
 昨日、恐怖体験をした現場に近づいたのである。警戒を強めるのは至極当然な事だ。いつまた不意に件の一つ目妖怪に襲われるやもしれないのだからな。
 とは言え、その一つ目妖怪の存在に気を配る以上に、俺は昨日出会ったもう片方の妖怪の姿をより熱心に探していた。
 もう片方の妖怪というのは、当然ながら一つ目妖怪に襲われた際に逃げ込んだ神社で出会った大狐、白面金毛九尾と自称するたまもと名乗った妖怪の事である。
 では何故ゆえそのたまも捜しを優先するのかであるが、それは彼女こそ一つ目妖怪拿捕に際し、キーマンとも呼べる存在だからである。何せ彼女無くして一つ目妖怪捕縛はあり得ず、彼女無くしての一つ目妖怪との遭遇は襲撃及び逃亡の恐れに直面するという危機を孕んでいるからだ。
 それにだ……実のところ、たまもとの再会に目処が立っていないという事が理由として大きかったのは否めない。昨日、駅前の喫茶店にて(なぜだかゴリ押しされた)たまもの助力の申し入れを俺は受け入れたわけだが、その直後彼女は「決まりじゃな」と言って立ち上がると「そんじゃあ明日、お主の通う高校とやらで再会しようではないか」と一方的に話を打ち切り、さっさとその場を立ち去ってしまっていたのだ。その一連の動作言動は実に洗礼されていて、制止することなどままならず、気付けば俺は静かにクラシック音楽が流れる小さな喫茶店の一角にひとり取り残されていたという事だ。
 つまりたまもと再会するにあたり、昨日における明日である今日という大雑把な時間指定と俺の通う高校というこれまた大雑把な場所指定しかなされておらず、その実現性に根本的不安を大いに抱えているのである。いったい今日の何時、高校という敷地面積の広い場所の何処で再会しようというのか、皆目検討もつかないのだ。たまもありきの作戦で、その彼女との再会が不透明というのは精神衛生上好ましくない。せめて行き違いの類は避けたいと、こうして周囲に気を配り始めたわけなのだ。
 かくして残り僅かとなった道のりを進んだ結果であるが―――――結局、校門の前に至るまでに、たまもを見つける事は出来なかった。そうそう物事というのは都合よく事が運ぶものではないのである。
 さて、どうしたものか……
 門前の脇で俺は考え込む。そこより先、校内へ踏み入るべきか否かを決め兼ねていたのだ。昨日の恐怖は未だ克明に覚えている。唯一の対抗手段と言えるたまもとの再会が未だ叶わぬままなのに、一つ目妖怪と遭遇し易い環境に身を置いて良いものかは、例えそれがその唯一の対抗手段を見つけるためであったとしても大いに悩むところなのだ。
 暫く逡巡した後、俺は行く手に注意を払いながら、再びその歩を進め始める事にした。まあ、ここまで来て踵を返し家へ逃げ帰るわけにも行かない。どの道、呪いを解かない限りは俺に未来はなく、そうならない為には結局のところ(おそらく)校内に居るはずのたまもと合流せねばならないのだからな。
 かくして意を決した俺は昇降口へと続く校庭脇の道を進んで行った。
 しかしながらやっぱり物事というのは都合よく事が運ぶものではないようだ。
 校庭脇の道を半分ほど進んだところで俺の進行は妨げられる事となる。背後から何者かに左腕を掴まれ、グイッと引き止められたのだ。
 一つ目妖怪を警戒するあまり、たまもの姿を探すあまり、行く手である前方に注意を向けていた俺にとって、それは全くの予期せぬ事であった。
「のわ゛ぁ!?」
 一つ目妖怪案件で気を張っていた事も相まって、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
 何事かと思い振り返ると、見覚えのある細身の女子生徒がひとり、俺を睨みつけるように立っていた。
「ちょっといい?」
 重苦しさを匂わせる声でそう言った女子生徒は、有無も言わさないといった感じで俺の左腕を鷲掴みにしたまま校庭とは反対の道脇に逸れて行く。
 よろけそうになりながら、俺はなされるがまま女子生徒の後に続いた。
 本来、斯様に一方的な行為は拒否して然るべきなのかもしれない。相手は細腕の女子生徒ひとり、そうするのにも弊害は少ないように思える。ただ力に任せて立ち止まり、「やめてくれ」と一言言えばいいだけなのだから。
 しかしながら俺にはそれが出来なかった。
 理由は多々あった。まず第一に、その女子生徒が身に纏う雰囲気という名のオーラが俺の抵抗に待ったをかけていた。幾ら体格的に優位性を有していたとしても、相手がそれを上回る威圧というやつをその身に宿していたとしたら話は別である。
 第二にその女子生徒は上級生というのがあった。我が校の制服はネクタイの一部に入学年度別に色違いのライン模様が刺繍されており、それによって学年を見分けられるようになっている。色は赤、青、緑が三年周期で使い回される仕組みで、今年度入学の俺達の年代は緑色が割り振られている。そして件の女子生徒のそれは青、二年の先輩である事を示していたのだ。年功序列文化が色濃く残る日本で生まれた俺には一応年上を敬うという考えがある。現状で事情が分らないとあっては無碍に拒絶するわけにもいかないのだ。
 そして第三に、俺はその女子生徒の事を知っていたのだ。と言っても別に直接の面識があったわけではない。いや寧ろ面識がないのに彼女の事を知っていたから抗えなかったと言えるのかもしれない。艷やかな黒髪のセミロングヘア、長く揃った綺麗なまつげ毛と宝石のように煌めく大きな瞳、淡麗な面持ちのその女子生徒は名を長宮小夜(ながみやさよ)。彼女は我が校の生徒会副会長なのだ。初めてその姿を拝見したのは入学式、如何にも堅物そうな生徒会長に連れ立って現れた時の事だった。慎ましく、それでいて艶やかな立ち振る舞いに思わず魅入ってしまったのを覚えている。だが、それもそのはずだ。あとで知った事であるが、この長宮先輩は容姿端麗で成績優秀、おまけに運動神経も抜群、ちょっぴり奥手だが人当たりが良いとの好評判で、校内随一の支持率を誇る人気者だったのだからな。事実、俺と似たような印象を受けたと思しき者は周囲に多々おり、それが単なる噂の類ではない事は明白だった。そんな相手が今俺の手を引き、何処かへ連れて行こうとしているわけだ。無下に出来ようはずがない。だってそうだろ、幾ら不穏な空気が彼女から流れ込んでいようとも、もしかしたらもしかするかもしれないではないか。僅かながらの可能性と解っていてもその可能性を捨てきれない、それが今俺を引き連れている長宮小夜という人物なのだから。
 かくして無抵抗のままこの長宮先輩にその身を委ねていた俺。そうして連れて行かれたのは特別教室棟校舎裏だった。
 朝のこの時間、唯でさえ特別教室棟は人気が少ないのだが、さらにその校舎裏である。そこは俺と長宮先輩を除けば人っ子ひとりおらず静まり返っていた。
 そのような場所に俺を連れ出して、いったい長宮先輩は何の用があるのだろうか。彼女の様子を覗うに、相変わらずその表情は険しく見えるのだが……。
「昨日はどうも」
 それまでの険悪な表情をガラリと一変させ、ニッコリと艶やかに微笑んで長宮先輩が言った。
 俺は背筋に氷水を垂らされような悪寒を覚え背筋を伸ばす。本来ならば可憐で美麗な上級生の笑顔に感涙してもおかしくない。しかしながら、如何せんその不自然なまでの表情変化、そして何よりその笑顔とは到底結び付かぬ重苦しく冷めた声色が本能的に俺の危機感を募らせていたのだ。
「き、昨日……ですか……? 昨日貴女様とお会いした記憶がないのですが……人違いではないですよね?……」
 俺は冷や汗混じりに恐る恐るそう答えた。実際、昨日長宮先輩と会った記憶などない。というか会っていたのならば、それが例え唯すれ違っただけだったとしても俺の脳裏には鮮明に焼き付いているはずである。だがそんな焼き印の痕跡は一切見当たらない。身に覚えがなければそう答えるより他にないというものだ。
 すると長宮先輩がいっそう眩く微笑みを向けた後、
「そうよね。覚えてないよね。って言うか、覚えているわけないよね。だってキミは私にショルダーチャージしても気にも止めず走り去れるくらい薄情な人間だものね」
 今度は明らかに表情と台詞の中身が合っていなかった。そして相変わらず声色も表情とは正反対、実に冷たい声。まるで長宮先輩の口を借りて別の誰かが喋っているような錯覚すら覚える程だった。
 長宮先輩のこの器用で卓越した発声スキルは置いておくとして、どうやら俺が彼女の逆鱗に触れてしまったのは紛れもない事実らしい。
 だがそれ故、俺は困惑した。なぜなら俺が昨日、長宮先輩と接触を持った記憶がないのもまた事実だったからだ。まして長宮先輩相手にショルダーチャージをかました記憶なんて以ての外だ。俺に非があるのならば誠心誠意謝りたい。しかしながら身に覚えがない事を誠心誠意謝る事など出来はしない。この矛盾を抱え、俺の中で葛藤が生じていたわけだ。
 そうして俺がたじろいでいると長宮先輩は満を持したように表情を一変させた。一瞬にして笑みの消えたその顔に唯でさえ冷えきっていた背筋が更に凍りつく。
 そして―――
「……キミ……本当に昨日の放課後、私を突き飛ばした事を覚えていないの?」
 長宮先輩は追い打ちとばかりにここ一番凍てついた声でそう言った。
 俺は即座に自身の脳内メモリに再検索をかけていた。たった今判明した「昨日の放課後」という限定期間を重点的に。これ以上、心証を悪くするのは避けねばなない。さもなくば俺は完全に長宮先輩から嫌われてしまい、高校生活は黒歴史へと変貌を遂げてしまうだろう。そうならない為には今一度、昨日の放課後に長宮先輩と相見えた事実が有ったかどうかを精査し、正確な事実確認に基づく正しき対処をせねばならないからだ。
 それにである。今のダークネスな長宮先輩は普段の清廉潔白なイメージから程遠く、見るに耐えないというか、新たな扉を開いてしまいそうというかで、俺の精神衛生上よくないので即刻善処せねばならんと思わずにはいられなかった。
 飽く迄も俺の脳内での感覚であるが、再検索は難航を極めた。そもそも昨日の放課後なんていう直近の出来事を忘れているはずがなく、幾ら思い返したところで長宮先輩のなの字も見当たらないからだ。
 とは言え、簡単には諦められないので、俺は昨日の放課後の出来事を今一度順を追って思い出す。とりあえず一つ目妖怪に襲われるまでは先輩と遭ってはいないはずである。もしその段階で先輩と遭ってショルダーチャージなんてしていたとしたら、俺は動揺甚だしく集中力を欠いて、その後に発せられた妖怪のものと思しき叫び声に気付けず、一つ目妖怪と対峙する事となる視聴覚室へは向かわなかったと考えられるからだ。視聴覚室へ向かったという事実が、そのまま俺の失念を否定する事になるのというわけだ。
 となれば一つ目妖怪妖怪に襲われている最中は流石にないだろうから、やはりその後の逃走中という事だろうか。
 しかしだなあ……。
 俺は胸中で苦悶の声を漏らした。
 その後は只ひたすら、たまもと出会う事となる神社まで走っていただけである。ショルダーチャージなんてしている暇も余裕も無かったはずなのだ―――と、半ば諦めかけたその時だった。俺は自身の記憶の片隅で僅かに木霊す残響に気がついた。
 そういやあの忌むべき体験中、妖怪と思しき常軌を逸した断末魔とは別に黄色い声のようなものを耳にしたような……。
 俺は再度、注意深く記憶を辿る。今度は黄色い声のようなものに重点を置いて。するとそれが全力疾走中であった事だと微かに思い出した。これで放課後から全力疾走中に、検索期間が絞られた。更に記憶を呼び起こし、限定作業を続ける。あれは走り出してどれ程の時か? その時、周囲の情景はどうだったか? 疲労具合はどうだったか? 自問して考える。失念していたとは言え思い起こせば、あの声はそれなりに耳に残っている。となれば、体力的に猶予のある走り始めの方か。
 そうして考察を交えた結果、俺の中である情景が浮かび上がった。それは昨日の放課後、一つ目妖怪を振り払った俺が我武者羅に走り逃げる最中、昇降口の出先で人に接触する光景。その際に耳に響く「きゃっ!」という女子の声だ。
 そういや、あの女子の声は長宮先輩のそれに酷似していたような―――。
 ここで突きつけられた事実と俺の記憶がカチンと音を奏でて合致する事となった。同時にそれは俺の表情を介して外部送出されていたのだろう。
 再び眩しさすら覚える笑顔に戻った長宮先輩が顳かみに青筋を立てながら背筋の凍るような冷めた声を漏らした。
「やっと思い出したね」
「いや……あの、あれは……」
 四方や妖怪に襲われたから、などと言えるはずもない。釈明の言葉も見つからず、俺は狼狽して口籠ってしまう。
 すると長宮先輩は声色をいつもの可愛らしくも凛々しい口調に戻して言った。
「私ね、あの時は花壇の世話を頼まれていて、ちょうど向かうところだったの―――」
「……さすが……副会長ともなればお忙しいんですね」
「満水のジョウロを持ってね!」
「…………………」
 長宮先輩が目を見開いて温もりの消えた眼で俺を見据える。
「それが何を意味しているか解る? 満水のジョウロを抱えた私がキミにショルダーチャージされた事が何を示唆しているのかを―――キミは解るかな?」
 長宮先輩の声は再び冷めきっていた。
 俺も馬鹿ではない。ここまで『満水のジョウロ』を強調して言われれば、その結果どうなったのかは想像出来るというものだ。
 しかしながら想像できてしまったが故、俺は余計にそれを口にする事が出来なかった。なぜなら、それは凄惨な結果に違いなく、それを口にしたのなら間違いなく、今以上の叱責を目前の普段は可憐な上級生から浴びせられるからである。
 もっとも、そんな俺の抵抗は文字通り無駄な足掻きでしかなかった。何せ長宮先輩が俺の対応の如何など関係なしに自ら正答を明かしてしまったからだ。
「そうよ、その通り、私はずぶ濡れよ。不意に仕掛けられたキミのショルダーチャージで私はバランスを崩し転倒。その際、持っていた満水のジョウロは見事にひっくり返ったわ。ええ、でも大丈夫、幸い満水で重さがあったから上方に舞い上がり頭から水を被るなんて事にはならなかったから。ただ胸元を中心にして盛大に水を浴びることになっただけだから。お陰で制服はびちゃびちゃ、ブラウスが透けて周りに居た野郎どものイヤらしい視線に晒されるわ、体操着での帰宅を余儀なくされるわしたけどね。まあ、それだけよ。ホント不幸中の幸い、ラッキーだったわ」
 相変わらず悪寒を懐かせるような面持ちだった長宮先輩は最後に一際重苦しい口調で迫るように俺に言った。
「キミもそう思うでしょ?」
 その直後、俺が謝罪の言葉を口にしたのは言うまでもなかった。無論、腰は九十度に折り曲げ、誠心誠意の謝罪だ。偶然とは言え、悪気がなかったとは言え、のっぴきならない理由があったとは言え、俺の不備で長宮先輩に実害を与えてしまったのだ。謝る他にないというものだ。それに妖怪に襲われて命からがら逃げている途中でした、なんて言っても信じてもらえないだろうし、寧ろふざけていると思われ心象を悪くするだけ。そればかりか変人認定まで加わり、人間性という意味でも俺の印象は悪くなる。世間で言うところの非常識が原因で弁明不能という観点からも、只ひたすらに許しを乞う以外、俺に残された道はなかった。
 しかしながら、
「今更謝って赦されるとでも?」
 腰を折り曲げ地面を見つめる俺の耳に届いたのは長宮先輩の無慈悲な声だった。
 昨日から一晩おいての謝罪、しかも被害者本人から促されてのそれである。その結果は充分に予想出来るものだった。とは言え、相手は長宮先輩である。解っていたとてダメージは拭いきれない。男として消沈せずにはいられなかった。
 俺は食い下がるように伏したまま様子を窺った窺う。
「…………………………」
「…………………………」
 息苦しさすら感じる沈黙が続いた。
 果たして、こうしている事に意味はあるのだろうか。既に長宮先輩に嫌われているとすれば、俺のしている事は無駄な足掻きに他ならない。であればこれを続ける事は寧ろ状況を悪化させるだけではなかろうか。往生際の悪い嫌われ者は目に余るだけではなかろうか。
 そんな悶々とした疑念を懐き、それでも尚、ほんの僅かな可能性にすがろうとしていた時だった。
「その辺にしておきたまえ、長宮君。あまり後輩をいじめるものじゃないよ」
 誰とも分からぬ中性的な声が俺と長宮先輩との間に割り込んで来た。
「あぁ土御門さん、おはようございます」
 長宮先輩がその声の主と言葉を交わす。どうやら声の主は三年の土御門椿(つちみかどつばき)らしい。土御門椿はこの学校の生徒会長である。同じ生徒会の役員という事もあるのだろう、度々長宮先輩と連れ立っているのを見た事がある人物で、中性的な顔立ちの眼鏡男子だったと記憶している。
「やあ、おはよう。だがそれよりも、一体この状況は何なんだい? 生徒会副会長ともあろうものが校舎裏で後輩をいびり倒すなんてあまり感心できる行為とは呼べないよ」
 土御門が言った。
「べ、別にいびってなんかいませんよ。これは所謂、厳重注意と言うやつです。ほら、昨日話した犯人ですよ。私は彼から酷い仕打ちを受けたんですからね。非道、非常識を正そうと教育的指導をするのは生徒会役員としての使命じゃないですか」
「だったら、その辺で彼を赦してあげるべきではないかな。注意や指導は寛大な心があってこそだよ。それなくしては唯の自己満足と言うものだ。それに別段、常習者というわけでもないのだろ? 見たところ反省もしている様子だし、充分温情に値すると思うのだがね」
「……そ、それは……まあ……そうかもですが……」
 言葉を交わすうちに長宮先輩の声がみるみるうちに弱まっていくのがわかった。今の状況を打破する為には良い傾向と見るべきなのだろうが、自分の作った原因が元で誰かが責められているのはなんとも居心地が悪いものである。
「あ、あの、悪いのは俺なので長宮先ぱ……副会長を責めないでください」
 俺は未だ伏したまま、そう言って口を挟むのであった。
 すると土御門が「ふふっ」と微かに吐息を漏らし、「―――だそうだよ、長宮君」と声を震わした。
 長宮先輩が観念したかのように投げやりな声を上げたのはそれから数秒おいたの事だった。
「あーもー、わかりましたよ! 赦す、赦しますとも。だからさっさと顔を上げなさいよ」
 俺は言われた通りに顔を上げた。するとそこには落胆する長宮先輩と苦笑いでそれを眺める土御門の姿があった。
「今回は大目にみるけど、次はこうはいかないからね」
 俺と目が合った長宮先輩が溜め息まじりにそう言った。向けられた視線が少しだけ恐かったが、先程までの冷たさは消えていた。
「以後、気をつけます」
 俺は僅かに安堵しながら誠意を持ってそう答えた。

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