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きつねのかがりび(仮)

二尾

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 一つ目妖怪から逃れるようにして偶然立ち寄った学校近くの神社。ここに突然現れた優美で凛々しく神々しい九つの尻尾を持った大狐。俺は財布の片隅から賽銭用にと五円玉を摘み上げたまま、神様への挨拶など忘却してその姿に見入っていた―――――


 暫くするとその大狐は、どんな揚力を得ればそうなるのかは解らないがヘリコプターがホバリングしながら着陸する時のようにゆっくりと拝殿の前にある開けた場所へと舞い降りて来た。ただしヘリコプターと違い喧しいエンジン音が無いので、それは大層神秘的な光景として俺の目に映る。
 当然ながら、この時既に俺はその狐が普通ではない事に気付いていた。つまりはそれが俺にしか見えていない光景であると認識していたわけである。まあ事の発端からして先程の一つ目妖怪の時と違ってわかり易い光景であったので、当然と言えば当然である。とは言え、その一つ目妖怪案件の教訓を活かすというのであれば、もう少し警戒を強めるべきであったのかもしれない。しかしながら、どういうわけだろう。神社特有の神聖な空気がそうさせたのか、はたまた目に映るその狐の優姿に心奪われたからなのか、俺は自分でも驚く程に悠然とその様子を眺めてしまっていた。
 そうしているうちに、狐は俺から数メートル先の地面へと静かに降り立った。狐が地に足を付いた瞬間、そこにあった空気が押し出されるように周囲へ弾け風が起こる。まるで歓声でも上げるかのように草木がざわめき、甘い香りを帯びた心地良い空気の波が俺の身体をすり抜けていく。
 俺は壮麗なその景観に魅入っていた為、微動だにしないオブジェと化していたと言える。その為、俺の姿は周囲の景色に溶け込んでいたのかもしれない。狐は俺の存在に気付く素振りも見せず、尻を突き上げ背を伸ばしながら、気持ちよさそうに目を細めていた。
 真に美しいものというのは、何をしても画になるものなのだろう。そんな生活感の垣間見える素朴な仕草すら格好良く見え、俺の目を釘付けにする。
 いつまでも眺めていたい、そう思いたくなる光景であった。
 だが俺はそんな有意義極まりない時間を自ら壊してしまう事になる。余りの放心ぶりに参拝用にと摘んだままでいた五円玉を意図無く手放してしまったのだ。
 俺の手からこぼれた五円玉が地球の引力に引かれ地面に落下すると、黄銅で作られた金属製硬貨と足元に敷かれていた神社の石畳が交錯して乾いた金属音が響く。
 それはまるで舞台の閉幕を告げる鐘のように、静寂な境内を飛び交った。
 反射的に狐の耳がピクリと動き、一瞬遅れてその顔が俺へと向けられる。無駄の無いその機敏な身の振りは、否が応でも野生の獣を連想させるものだった。
 そんな狐と視線がぶつかる。俺は反射的に不味いと思い身体を硬直させた。
 案の定と言うべきか。狐は足音静かにゆっくりとこちらに近づいて来た。獣特有の鋭い眼で真っ直ぐと俺を見据えながら、ジリジリと距離を詰めて来るその姿は、まさに狩り(ハント)を連想させるもの。互いの体格差は比べるまでも無く、毛皮越しにも分かるしなやかな筋肉の流動を見る限り、格闘は愚かスプリント勝負を仕掛けたところで先ず勝てないだろう。
 抗う事も逃げる事も無理とあらば、果して俺は他にどのような対応策を取ればよいのだろうか。
 平静を装いながら内心焦っていると、みるみるうちに狐は俺の目前まで歩み寄ってきた。
 まるで巨大な壁のように、傾いた日の光を遮る狐。 間近でみると改めてその大きさに圧倒される。見上げた首が痛かった。
 只々狐の行動を目で追うことしか出来ない俺。そんな俺の姿はいったい狐の目にどう映ったのだろうか。
 狐は俺に顔を近づけると、鼻をゆっくりと押し当ててきた。
 前途で述べたように圧倒的な体格差がある為、如何に狐がゆっくり押し当てようとも、俺は大きく体勢を崩してしまう。
 よろけて二三歩ふらついた俺はいよいよ身の危険を感じ、咄嗟にある行動を取った。
「い、いや~……今日は風が強いなぁ~」
 すっとぼけたのだ。視えないフリである。俺は妖怪が見えるが、それは人間として異質である。ならば妖怪にとっても自分達を視認可能な俺のような人間は異質な筈である。この狐の行動を見る限り、その異質に感付き興味を示した節が見て取れるため、俺はそれを逆手にとってその可能性を排除、興味を逸らせようと考えたのだ。まあ、早い話がこの土壇場で例の無視(スルー)作戦を発動させたのである。この期に及んで無理があるだろ、と思いがちだが、【人間に妖怪の姿が視えるわけがない】という疑念がそこにあるのなら話は別である。誰しも非常識とは受け入れ難いもので、こうした常識から乖離した疑念というのは多分に判断を鈍らせるからだ。視える人間の希少さ、非常識具合を考慮すれば、先程までの俺の行動、即ち目があったり、多少動きを追ってしまった程度の事であれば、いろいろと偶然が重なり偶々そう見えただけと誤認させるのも充分可能と言えるのである。
 しかしながら、俺の思惑を嘲笑うかのように狐は再び鼻を押し当ててきた。
 先程同様よろける俺の緊張感は増す。だが動じる事はなかった。俺とて、そうすんなりと狐が誤認してくれるとも思っちゃいないからな。
「ホント今日は風が強いな」
 様子見という事で、俺は再びすっとぼけてみせた。
 そんな俺を狐はまたしても鼻で押してきた。随分と疑り深い狐のようだ。
 俺は更にすっとぼける。今更ここでやめるわけにもいかないからな。
 それでも狐はまたも俺を鼻で押した。
 ここから暫く、この押し問答のような応酬が続く事となる。狐が俺を鼻で押し、それを俺がとぼけてやり過ごす。それは意地の張り合いとも言える様相だった。
 狐に押されること十数回。これだけ続くと流石に自分の下した判断に自身が持てなくなってくる。つまりは、既に俺が視える人間だと狐に感づかれているのではないか、との疑念が湧いてくるのだ。加えて実際には〝押される〟と〝すっとぼける〟の間に〝よろけてふらついてから体勢を立て直す〟という動作をしていたので、先程まで疲弊して身体を休めていた身としては体力的に辛いというのもあった。
 そんな諸々の事情もあり、そこから更に数回ほど応酬が続いた後、俺は遂に現状に耐え兼ね、狐の小突きを避けてしまうのだった。
 俺が躱した事により空を突く格好となった狐。そんな狐はその空を突いた状態でピタリと動きを止めると、一拍あってから顔の向きはそのままに躱した俺へと紅色の瞳を動かして視線を向けてきた。
 獣特有の縦に細長く割れた瞳孔を向けられ、迂闊に避けてしまった事への後悔と共にたじろぐ俺。
 沈黙すること約二秒。
 狐はゆっくり身を起こすと、体勢を直し改めて正面から俺を見据えた。
 見上げるほどに大きな狐と真正面から向かい合う形となった俺は、ゴクリと生唾を飲み込んで只々成り行きに身を任せるしかなかった。
 そして更に沈黙すること―――いや、もうこの状態では俺の体感時間など当てにならん。とにかく幾ばくか間があった後だ。
 狐が再び俺に鼻頭を当てようとしてきたのだ。
 俺はするりと身を躱してそれを避ける。既に一度避けてしまったのだ、今更元の見えないフリに戻すのは寧ろ不自然、いや無意味である。ならば疲労(ダメージ)の少ない方を選ぶのが常套というものだ。
 かくして再び空を突く事となった狐。またしてもその瞳で俺を凝視した後、身を起こして正面から見据えてくる。
 相変わらずの迫力ある光景に俺の身体は硬直し、体中から体温調節とは明らかに違う、冷たいのか温かいのかもわからない汗がにじり出る。蛇に睨まれた蛙の気持ちが少し解った気がした。
 ここでの沈黙は一際長く感じられた。何というか、最後の裁定を待つ気分だな。
 こうして俺が固唾を飲んで様子を窺っていると、
「ほにゃ!? 貴様、妾が視えるのか?」
 唐突に狐が獣とは思えぬ若々しい女のような声をあげた。表情豊かに目を見開きながら、明らかに驚いた様子で俺を見ながら。
 俺は強張っていた全身の筋肉が一斉に緩み脱力する。狐の仕草も然ることながら、間の抜けた擬音語と緊張感の無い口調によるところが大きかった。
「ふにょ!? もしや声も……」
 狐は俺の反応に更なる驚愕を見せる―――が、すぐに「いや待て、この場に居る時点でそれは当然と考えるべきか……」などと小声で漏らしながら考え込んでしまった。
 その後暫く、狐は『人払い』がどうとかと、俺には訳の分からないような独り言をぶつくさと口にして、うんうん唸っていた。
 この間にそっと逃げだそうか、とも考えたが、それはそれで後味が悪そうだったのでやめておく。俺とて物心ついた時から怪しげなものを見続けてきた身。その辺の経験はそれなりに豊富だ。だから経験から知っているのである。妖怪と呼ばれる者達が、必ずしも人に有害であるとは限らない事を。妖怪の中にも友好的に接してくれる奴はいるし、俺なんかを慕ってくれるような変わり者だって過去にはいた。妖怪とて千差万別、悪い奴も居れば、良い奴も居る。気の合う奴も居れば、どう頑張っても相容れない奴もいる。人付き合いと一緒だ。学校で遭遇した一つ目妖怪は明らかに俺とは反りが合わない有害な奴だったが、この狐にはそれ程それを感じない。まあ正確には先程の狐の間の抜けた仕草がそうさせたと言うべきだが。
 ともあれ、そんな相手に無断で逃げ出す様な真似は些か気が引けるというものだ。
 そこで俺は、多少逡巡した部分もあったが「……あの~」と狐に声を掛けてみることにした。
「おっと、失敬。つい考え事を。……で、なんじゃ?」
 相変わらず緊張感のない口調で答える狐。妙な親近感を覚えながら、それでも俺は慎重に言葉を選びながらおっかなびっくり訊ねる。悪意を感じられないからと言って友好的とは限らないし、互いの戦闘能力の差が埋まった訳でもないので油断は禁物だ。
「俺……いや、僕このあと所用がありますので……この辺で失礼させて頂いても……」
「所用って?」
 即座に狐からそんな質問を返された。しかもそれは前のめりにその大きな顔を急接近させてきた狐の視線を一身に浴びながらだった。
 当然ながら所用などと言うものはその場を逃れる為の方便であり、実際に有りはしない。よもや会って間もない相手にそんな事を訊き返されるとは思ってもみなかった俺は答える術を持たずに口籠る。
 そんな俺に狐は訝しげに眼を細めながら顔を近づけると、
「解りやすい奴じゃな……」
 俺は即座に謝ったね。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
 狐の言葉がどういったものかというのは関係が無かった。俺はただ狐から発せられた言葉に脊髄反射するが如く、謝罪を連呼していた。気持ちと言うものはちょっとしたきっかけでガラリと豹変てしまう。先程の俺が良い例だ。寸前までガクブルだったのに、狐の取った些細な行動一つで簡単に安堵してしまったのだからな。そして気持ちの移り変わりというものは、これまた先程の俺の様に好転する事もあれば、逆に悪化する事もある。狐を出し抜いてその場を逃れようとした事実から見ると、今置かれた俺の状況は明らかに後者の可能性が高いと思われ、所謂半ばやけくその謝罪、怒り出す前に謝り倒そうとした訳である。
 すると、
「別にそこまで謝らんでもよい。妾ほどの妖と対峙しておるのじゃ、多少気が動転しておかしな事を口走ったとて仕方の無い事。いちいち責めやしないわ」
 意外にも狐は怒る事も無く、寧ろ俺を気遣うかのように穏やかな口調でそう言った。
 俺は夢中で同一単語を繰り返していた口を止め、改めて狐を見る。相変わらず目の前には狐の大きな顔があり、こちらの様子をじっと見据える瞳があった。ただ、その顔には別段威圧感も無く、どちらかと言うと微笑んでいるように見え、その上、不思議と恐怖が薄れていく抱擁力のようなものがそこにはあった。
「落ち着いたかや?」
 静まる俺を見て、狐は改めて穏やかにそう言う。そして俺が頷くのを確認すると、僅かに目を細めた後、近づけていたその顔を静かに離していった。
 一連の狐の行動は、俺が好感を持つには充分なものであった。……が、よく考えたら、その場を離れようとした事をやんわりと拒否られたとも取れる。暗に主導権は狐にあると示されたようなところもあるので、内心では複雑であった。
 ともあれ、今のところ心証は悪くないので、俺は暫く狐主導の流れに身を任せる事にする。幸い、狐の中で俺は強力妖怪に出くわしてテンパっている哀れな少年という事になっている様子である。となれば多少の不備非礼があっても大目にみてもらえる算段が立つというもの。それに弱者として気遣いを得られる分、下手にこちらから行動を起こし優位性を主張するより安全に事が運ぶだろうからな。
 そんなわけで俺が受け身の姿勢で構えていると、狐は早速「お主、名は何と申す?」と訊ねてきた。
 どうやら俺の判断は間違っていなかったようだ。狐が俺に危害を加えるつもりならばわざわざ名など訊いては来まい。
 俺は訊かれた通り、自身のしがない名前を名乗った。
 狐は名を聞くと、まじまじと俺を見ながら柔らかな声で「良い名じゃな」と微笑んで見せた。
 自分の名前を褒められて悪い気を起こす奴なんていないだろう。ましてこんな面と向かって堂々と言われたとあっては、例え相手が巨大な狐であろうとも、気恥ずかしさから頬を熱くしてしまうというものだ。
 俺は照れながら遠慮気味に礼を述べた。
 すると狐は、
「今度は妾の番じゃな」
 鼻息荒くそう言った。
 俺の名を告げたのだ。今度は狐がその名を告げてくる。話の流れ的には真っ当であり不満などもない。しかしながら、待ってましたと言わんばかりの気合の入りようが多分に見て取れれば身構えたくもなるというものである。
 悠々と身を起こし数ある尻尾を派手にうねらせる狐。何やら決めのポーズをとっているように見えたが、俺は敢えてそこに触れぬよう平静を装った。
 そして狐が名乗りをあげる、力強く悠然と。
「我が名はたまも。かの有名な大妖狐、白面金毛九尾とは妾の事じゃ!」
 たまもと名乗った狐は暫くそのまま動かなかった。どうやらあれは本当に決めポーズだったようである。ともあれテレビや映画じゃあるまいし、気の利いた効果音の一つも無いその振る舞いは何というか……お笑い用語的に「寒い」というやつで、近寄り難き負のオーラを多分に醸し出している。
 当然ながらリアクションに苦慮した俺は、それを遠巻き(心的な意味で)に見守る事しか出来ない。
 そんな俺の態度が気に入らなかったのだろうか、たまもは本日初めて声を荒らげて、
「何じゃその能面被ったみたいなリアクションは! 伝説の大妖狐に会えたのじゃぞ! もっとこう……心の奥底から沸き起こる感動というか、感情のうねりみたいなものがあるじゃろが!! 驚愕や感銘があるじゃろが!!! それとも何か、知らぬのか!? お主は偉大な白面金毛九尾の凄さを知らぬのか!? 無知なのか? 阿呆なのか?」
 荒々しい口調と共に吐き出されるその吐息は体格差の関係上、俺からしたらちょっとした突風のようで、髪が激しく掻き乱される。
 ぶっちゃけ、驚くとか驚かない、感動する、しない以前の問題だったわけであるが―――――鼻息荒く睨み付けてくる偉大なる大妖狐、白面金毛九尾たまも様を見る限り、とてもじゃないがそれを指摘する気にはなれないというもの。
 てなわけで、俺はたまもの主張に沿った返答を用意する。
「……いや、無かったわけじゃないですよ、情動。白面金毛九尾と言えば有名ですからね。唯……」
「唯なんじゃ?」
 鼻先で詰め寄るたまもに、俺は乱れた髪を軽く整えながら答える。
「こんな白面金毛九尾伝説と縁も所縁も無い土地にある、縁も所縁も無さそうな神社(場所)での事なので、何で居るんだろう、と疑問の方が先に立ってしまい情動が後回しになっているんですよ」
 白面金毛九尾の狐伝説ってのは俺の知る限りでは確か、かつて人に化けて宮中に紛れ込んだ九尾の狐が、好き勝手私腹を肥やした後、時の陰陽師に正体を見破られ逃走、どこぞの山奥に追い詰められながら大軍勢相手に奮闘するも最終的には敗れ、哀れ殺生石なる石にされてしまった、とかだったと思う。そしてこの街はそのどこぞの山奥ではないし、その近場でもない。加えてこの神社は拝殿の左右に立派な狛犬を構えており、稲荷神社というわけでもないので狐繋がりの線も排除されている。実際、ここはかの有名な九尾伝説からは無縁過ぎる場所なのだ。
「そんなの決まっておるじゃろ。妾は倒されてもいなければ封印されてもいなかった。ここには放浪中に休憩がてら偶然立ち寄ったのじゃ」
 決まっておるじゃろ、って言われてもなあ。
 あっけらかんと言うたまもを余所に、俺は寧ろ考え込む。俺の……というよりも世間の常識及び日本を代表する故事をあっさり全否定されても、戸惑うばかりというものだ。
「なんじゃい、その不審に満ちた目は!? 嘘ではないぞ! 何せ本人、いや本狐が言っておるのだからな!!」
 今はその本人であるかの議論中である。そんな破天荒な理由で納得出来るものではない―――――とまあ、普通なら考えるのだろう。だが俺は素直にその言葉を受け入れる事にした。彼女が白面金毛九尾本人ならぬ本狐だという、その言葉を。
 無論、本狐(本人)と結論づける明確な証拠など提示された訳ではないので偽者という可能性もある。だが、俺を魅了したその凛々しい姿と独特の身に纏う空気感。威圧感こそ無いものの、それらは本物の白面金毛九尾と言わしめるには充分であった。所謂、大物というのは相応の風格を持ち合わせているもの、というやつだ。勿論そんな個人的〝勘〟のようなものが世間一般において説得力たり得ないのは承知しているが、それでも幼い頃から数多くの妖怪と対峙してきた俺である。こと妖怪に関して言えば、そうした何となくの感覚でも確信を持ててしまうところがあるのだ。
 納得する俺にたまもはフフンと鼻を鳴らし何やら弾ませた声で、
「さあ、これで疑問も晴れスッキリしたじゃろ。心置きなく感銘の声をあげてみせよ」
 上機嫌なたまもには申し訳ないが、相変わらず俺は別段オーバーアクションをとる事も無く、その場に黙って立ったままだった。
「なぜ黙っておる? 超有名な妾に出会えて何も思わぬとか有り得ぬじゃろ。お主には感性というものが無いのか?」
 覗き込むようにして再び不満そうな顔を近づけるたまも。
 幾分慣れてきたとは言え、自分の身長よりも大きな獣顔を近づけられると、やはりどうしたってたじろいでしまうもので、俺は後ずさりしそうになるのを堪え苦笑いしながら謝った。
「すみません……」
 別に、何も思わなかった訳ではない。正直、すごいと思っている。相手は白面金毛九尾、妖怪としては超一級、俺が過去に出会った中でも断トツの知名度をもっていたからな。
 だが俺は別に妖怪マニアでもなければ、有名なものなら取り敢えず群がっておく生粋のミーハーというわけでもない。その上、曲がりなりにも妖怪エンカウント慣れしている身であるため、言うなればカテゴリーの不一致ってやつで、如何にその道の超一流と言えど、そこまで過度な反応は出来ないのだ。
 せめてこれがもっとこう……人として一般的な仰望対象というか、男として崇敬するというか、例えば有名女優やアイドルといった相手ならば、ミーハーではないと言えど、もう少し派手な反応を出来たかもしれないけどな。
 俺が冗談を交えつつ弁明すると、たまもはそれを聞くやいなや、
「何じゃ、人間の雌の姿なら感銘してくれるのか? それならそうと早よ言わぬか」
 なんとも珍妙な事を言ってみせた。
「今のは一体どういう意味で?」
 俺が不思議に思い聞き返すと、
「言葉のままじゃよ」
 たまもはそう答えニッと笑った。
 直後、たまもの艶やかな体毛が煌めき始めたかと思うと、瞬く間に眩い光へと変わりその全身を包み込む。まるで至近距離で車のヘッドライトをハイビームで向けられたかのように視界が白くとび、たまもの姿を見失った。
 それは目を覆いたくなるような眩しい発光現象だった。だがすぐにその光は収まった為、そこまで大袈裟な事はせずに済む。
 しかしながら、その代りと言っては何だが、光が収まり再びたまもの姿を捉えると同時に、俺は素早く首を九十度回頭、堅く目を閉じるようにしていた。
 何故か?って、理由は簡単だ。直視できない閃光よりも強烈なものがそこにあったからである。
 そんな俺にたまもは「どうじゃ?」と問いかける。
 目前は真っ暗闇、当然ながら俺は何も答えられない。
「こりゃ! せっかくお主の望み通り人の形を取ってやったんじゃぞ、目を逸らすでない! こっち見ろ! 見て感動しろ!」
 俺の行為が気に食わなかったのだろう、たまものむくれた声が耳に響く。
 俺は今日一番の困惑を持ってこれに答えた。
「……いや、そんな事言われても……ってか何で裸なんですか? 服着てくださいよ!」
 俺が瞬時に視界を絶った理由はこれだ。光が収まるとそこに髪の長い女性が居た。正確にはたぶん髪の長い女性、だ。如何せん目視時間が極めて短かった為、刻々と薄れゆく記憶の中で全体のシルエット位しか脳裏に残っていないのである。それでも、それの曲線美は女性のそれであり、それをそれと認識出来たという事はやはりそれはそれだったのだ。果たして俺は今、それと何回言ったのか。とにかく、事象説明がおかしくなる位、俺が平静を失う光景だったのは確かである。
「裸? 服?………ああ、そう言えば人間というのはそういう事を気にするのだったな……全く……面倒臭い奴らじゃのぉ……」
 俺の動揺とは裏腹に、なんとも緊張感の無い呆れたようなたまもの声。そこに俺の指摘に動じた様子など微塵も感じられなかった。
「ちょっと待っておれ」
 続けてたまもがそう言った。
 言われるがままに暫し待つ。無論この間、俺は一瞬たりとも目を開けてはいないし、顔も横に向けたままだ。全て聴覚のみによる状況把握であった事は俺の名誉の為にも、今一度強く主張しておきたいと思う。
 程なくしてスルスルと衣擦れする音が聞こえてきた。状況的に何かを着込んでいると想像するのは難しくなく、漸く俺はホッと胸を撫で下ろした。
 暫く衣擦れの音に聞き入った後、
「ほれ、着物を着てやったぞ。これで良いのじゃろ?」
 たまもに言われ、俺は回頭していた首を戻すと、ゆっくりと目を開けた。
 すると、そこには桜色の着物と紺色の袴を身に纏い、黒い革製ブーツを履いた髪の長い女性……いや少女が立っていた。細身でやや幼さの残る風貌。見た目、年の頃は十代半ばと言えそうだった。黄金色に煌く髪に粉雪のような純白の肌、輝く大きな紅色の瞳。普段見慣れぬ古風な出で立ちも相俟ってか、思わず見入ってしまう程の美しい少女だった。いや、実際に見入っていた。
「そう、それじゃ! 妾はお主のそんな反応が見たかったのじゃ!!」
 弾けるようなたまもの声に唖然としていた俺が我に返ると、彼女がはしゃぐようにこちらを指差していた。
 俺は瞬間的に現実へと引き戻され、カッと顔を熱くする。思わず見惚れてしまった挙句、それを当人に指摘される。気恥ずかしさで気狂いしそうだった。きっと今の俺の顔は熟したトマトの様に赤く染まっているに違いない。たまもが目を見開いて凝視した後、高笑いを始めたのが何よりの証拠だ。
「もう、気が済みましたよね? 帰ってもいいですか?」
 俺は気恥ずかしさから、そう言ってその場を立ち去ろうとした。
 すると、たまもがそれを膨れっ面で制止する。
「態々こんな格好までさせておいて、それは無いじゃろ! お主は礼儀というものを知らぬのか!?」
 別に俺が頼み込んだ訳でも無く、どちらかと言うとたまもの方が勝手に少女姿(そんな格好)になった様なものである。とんだ言いがかりではなかろうか。
 とは言え、俺が立ち去ろうとした原因は自身の羞恥心に起因する一時の気の迷いというやつで、決して本心ではない。俺とて一応は男である。如何に相手の正体が巨大狐であろうとも、可憐な少女姿で袖を引かれて嫌な訳がない。まあ所謂ひとつの『男の性』というやつで、言葉や動作(アクション)とは裏腹に、俺が歩み出そうとした足を止めるのに然程抵抗は無かったというわけだ。
 故に俺は至ってポジティブな理由でその場に留まろうとしたわけである。少なくとも実際に足を止めるその寸前まではそうだった。
 しかし浮かれ気分はそこまでだった。なにせ実際に足を止めたのは至ってネガティブな理由だったからだ。
 不意に俺の左腕が言い知れぬ痛みに襲われたのだ。厳密にはそれが痛みなのか苦渋なのか解らない、とにかく今まで感じた事の無い圧迫感のある痛みのようなものだった。思わず左腕を庇うように右手で押さえ込む。幸いその痛み自体は数秒で治まり、それ以上どうなる訳でも無かった。だが、覆っていた右手を退け、改めて左腕を見た俺は痛み以上に戦慄を覚え驚愕する。
 俺の左腕には文字とも紋様とも取れそうな異様な形をした黒い痣のようなものが不気味に浮かび上がっていたのだ。
 滲みながらもくっきりと浮かび上がっているそれは不自然な規則性を持っており、見るからに自然にできた打撲類の痣とは思えない。
 瞬間的に先の学校での出来事が脳裏を過る。あの一つ目の黒い妖怪に襲われた視聴覚室での出来事だ。あの時、俺はあの一つ目妖怪に左腕を掴まれていた。先刻まで気付かなかったこの痣のようなものとその事実、両者を結び付けるのはそう難しい事ではない。何せ襲われたのはほんの数十分前、例えたまもの登場で記憶を脳裏の片隅へと追いやっていたとしても、それは未だ鮮明さを保った悍ましい体験である。寧ろ両者を結び付けるなと言う方が無理な話だった。
 同時に込み上げてくるのは不安。あんな非友好的妖怪が施したものだとすれば、この痣擬きも友好とはかけ離れた代物であるに違いない。直感でそう思ったのだ。
「どうしたのじゃ? 怪我でもしておるのか?」
 俺の仕草が不自然だったからか、はたまた不安を読み取ったのか、たまもが心配そうに声を掛けてきた。
「何でもありません」
 俺は咄嗟に痣擬きを制服の袖で隠すと、そのまま背後へ左手を移す。
 迷惑はかけられない。幼い時より妖怪事でのトラブルに見舞われる事が多かった俺。その都度、周りに悟られまいと振る舞ってきたが故の無意識による反射的対応だった。
 尤も条件反射とは言え、俺は自身の取ったこの行動に後悔など微塵も無かった。今回は正真正銘性質の悪い妖怪絡みの案件。下手に係わると本当にとばっちりを負いかねない厄介事である。しかも、状況的にとばっちりが惨事と成る可能性も大いに想定できる事案。それを知りながら無関係な誰か、例えそれが人間でなく妖怪だろうとも、巻き込むなんて事はしたくないからだ。
 とは言え、明らかな不調を示した後での振る舞いである。好奇心も然ることながら心配を懐かせてしまったであろうと大いに想像がつく。俺の心根など知る由も無いたまもが放っておかなかったとしても、それは致し方のないことだった。
「嘘を言うな、見せてみい」
 たまもはそう言うや否や、素早く俺の背後に手を伸ばし左腕を掴むと自身の胸元まで引き寄せた。
 不意を突かれたというのもあったが、そのか細い腕からは想像も出来ないような力強さだった為、抵抗する間も無く左腕を曝してしまった。元が巨大狐のたまもが相手なので、その辺の馬鹿力に関しては驚きもしなかったが、あっさりと信念を曲げてしまった結果に関しては、少しだけ自分が情けなく思えた。
「ありゃりゃ。こりゃ、呪いじゃな。何があった?」
 半ば強引に袖を捲し上げ、俺の左腕を一目したたまもはそう言った。
 それなりに予想出来ていた事なので呪いという言葉に俺は然程驚きを覚えなかった。それよりも、このような妖怪関係の案件に説明不要で理解してもらえた事に俺は不謹慎だが高揚してしまう。たまもも妖怪なのだから当然と言えば当然だが、それでも当たり前のように俺の不可思議体験を受け入れてもらった事など殆どないので、相手が何者であれ嬉しかったのだ。
 未だ巻き込みたくないとの思いはあるものの、今更隠し通せる状況でもない。先に述べた気の高揚もあってか、俺はたまもに学校で遭遇した一つ目妖怪の事を話す事にした。
 俺が事情説明を終えると、たまもは改めて俺の左腕を凝視した後、何やら険しい表情でブツブツと独り言を始める。
「望み薄……」「危険(リスク)が……」「打つ手なし……」「教えるべきか……」「死ぬ……」「知る権利はある……」「黙っておく事も優しさ……」
 小声であった為、俺には限られた言葉しか聞き取れなかったが、どれも不安を駆り立てるものばかり。特に「死」と言う言葉(ワード)が一際深く俺の胸に突き刺さる。
「……あの……俺……死ぬんですか?」
 不安に耐えかねた俺はたまもにそう訊ねる。中途半端に漏洩(リーク)された情報の下で疑念を懐きながら悩むより、真相を知った上で悩んだ方が幾分事情を受け入れられるというものだ。
 俺に訊ねられたたまもは、ハッと口を両手で押さえ絵に描いたような失態者の顔を見せる。それは俺が真実を悟るには充分過ぎる程に解りやすいリアクションであった。
 落ち込む……と言うより絶望に近かい感情が俺の胸を重く包み込んできた。
 消沈する俺を見て、初めこそ取り繕おうとしたたまも。だが、今更そんなものが気休めにもならない事は当事者の俺でなくても明白だと悟ったのだろう。開き直るかのようにこう言った。
「この呪いをこのまま放っておけば、そうじゃな……あと三日、三日程でお主は死ぬ事になるじゃろう」
 まさかの余命宣告である。しかも残り三日。流石に幾ら相応の覚悟を持って訊いたとは言え、前途有望な高校男子が受け入れるには些かヘビー過ぎる内容だ。
 先程までの傷心の比ではない。見る見るうちに俺の視点は辺り構わず無意味に放浪し始める。そしてそれを認識しながら止められない精神と肉体の別離状態。絶望の淵を彷徨うとは、たぶん今の俺みたいな事を言うのであろう。
「こりゃ、こりゃ、そこまで気を落とさんでも良いじゃろ。妾はこのまま放っておいたらと言った筈じゃぞ」
 早くも己の人生を振り返り始めていた俺だが、たまものこんな声に、如何にか正気を取り戻す。そして思い出した。目の前にいる細身で可憐な少女たまもが白面金毛九尾である事を。
 白面金毛九尾と言えば、千年単位で生きる大妖狐。長寿故に知識も豊富そうだし、日本でも指折りの大妖怪なのだから神通力的不可思議能力も半端無いはず。あんな如何にも三下っぽい一つ目妖怪が施した呪いなど、ちょちょいのちょいと片手間で消せたとしてもおかしくはない。
 人間、一度どん底まで絶望すると、希望に対する尺度が著しく歪むらしい。先程の独り言で散々な言葉(ワード)の数々を並べられていた事など忘れ、光明を見出したかのように俺はたまもに……いや、たまも様に縋ろうとするのだった―――――――
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